今の朝鮮は高々600年の歴史しか無かった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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今の日本人と朝鮮人は言葉も文化も気質も全く異なっているのに、古代の朝鮮語と日本語は兄弟であるとの誤解が定説であった。そして古代の百済・高句麗・新羅の民は古朝鮮語を喋っていたと現代朝鮮人は信じている。

しかしながら、実は百済・高句麗・新羅の人々は当時の日本人と言葉が通じていた(参考)。百済・高句麗が滅亡し、統一新羅となってから新羅人と話すのに通訳が必要になったのは遅くとも9世紀のころであった(参考)。すなわち、この頃には異民族が朝鮮半島に侵入して、徐々に民族・文化が置き換わりに近い形で変容して、10世紀初期、ついに高麗となった。

そして、モンゴル平原から元軍がやって来て占領した期間に支配層の逆転が起こり、14世紀中頃、元の武官であった李成桂が初代国王となる李氏朝鮮になって、民族の置き換わりが完了した。

すなわち、今の朝鮮民族の歴史は高々600年程度であった。ハングルが発明される前までの朝鮮語はほとんど分かっていないとされているが、朝鮮語は前時代の高麗語とは無関係で断絶していると考えて良さそうである。

これを裏付けるのが被差別民の呼称の白丁(ペクチョン)である。李氏朝鮮になる前までは白丁とは良民(平民)のことであったが、李氏一族が王族と上流階級(両班及び良民)を占めると、以前の良民であった白丁たちは、そのまま下流の被差別民となった。ここから白丁が被差別民を指す名詞となり、現在では更に最下層の被差別民を白丁と呼んでいるのである。

すなわち、現在の白丁と呼ばれる最下層の被差別民の由来は明らかに出来ないが、白丁の名詞の由来が朝鮮民族の入れ替わり(背乗り)を明らかにしている。現在、朝鮮人のほとんどが自分のルーツは上流階級の両班であると主張していることは間違いでは無く、民族の入れ替わりが完了していることを示唆している。

高麗時代では地方豪族が任命された下級官吏の胥吏(しょり)が、李氏朝鮮時代では世襲の被差別民として存続したことも、民族の入れ替わりを証明している。


参考

① 謎の日本古代史(74)李成桂の怪、白丁(ペクチョン) (中杉弘のブログ、参考)

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※写真ー威張る両班、担ぐ白丁

昔、ちょっとしたことで奥村という男と知り合いました。この人間は、日本名を使っていますが、話の内容から朝鮮人だなということがすぐにわかりました。特に、北朝鮮系の人間だとわかりました。この朝鮮人から聞いた話ですが、朝鮮には白丁(ペクチョン)というのがいるのです。日本でも、それを見つけるとぶん殴るのです。今の話です。レストランで白丁を見つけると、「お前が来る所なんかじゃない! 白丁なんかと同席できるか!」と言ってブッ飛ばすのです。「それだけやらないとこいつらはダメなんだ」と言っていました。

本当に委縮した白丁という階級があるのです。びっくりして、「今の話ですか?」と聞くと「そうだよ」と答えました。今でも朝鮮には身分制度があるのだと聞いてびっくりした記憶があります。白丁というのが、朝鮮人が馬鹿にされる最大の問題点なのです。

李成桂(り・せいけい、1335年10月28日- 1408年6月18日、元(モンゴル)の武官、1357年から高麗の武官、李氏朝鮮の創始者にして初代国王)の前からあったのですが、李王朝の中での身分制度なのです。これは、王様がいて、その下に両班(ヤンパン)がいて、その下に常民がいて、その下に奴隷がいて、その下に白丁があるのです。奴隷と白丁は違うのです。白丁とは、どういうものかというと、これは詳しく書きますが、まず外国人から見た白丁の実態を紹介しましょう。

外国人文献に見る具体的な描写、 イザベラ・バード 『朝鮮紀行』 講談社より 

「朝鮮の災いのもとのひとつに、この両班つまり貴族という特権階級の存在がある。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥じとはならず、妻がこっそり よその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、大勢のお供をかき集められるだけ かき集め引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して、飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。」 

「当時はひとつの道に44人の地方行政官がおり、そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとってみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2,400ドルかかる。総員1万7,600人のこの大集団は『生活給』をもらわず、究極的にくいものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に『搾取』するのである。」

マリ・ニコル・アントン・ダブリュイ『朝鮮事情』より 

「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である」 

「朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物もあたえられず、両班が要求する額を支払うまで鞭打たれる。両班のなかでもっとも正直な人たちも、多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令は、一人もいない。」 

「両班が首尾よくなんらかの官職に就くことができると、彼はすべての親戚縁者、もっとも遠縁の者にさえ扶養義務を負う。彼が守令になったというだけで、この国の普遍的な風俗習慣によって、彼は一族全体を扶養する義務を負う。もし、これに十分な誠意を示さなければ、貪欲な者たちは、自ら金銭を得るために様々な手段を使う。ほとんどの場合、守令の留守のあいだに、彼の部下である徴税官にいくばくかの金を要求する。もちろん、徴税官は、金庫には金が無いと主張する。」 

「すると、彼を脅迫し、手足を縛り手首を天井に吊り下げて厳しい拷問にかけ、ついには要求の金額をもぎとる。のちに守令がこの事件を知っても、掠奪行為に目をつむるだけである。官職に就く前は、彼自身もおそらく同様のことをしたであろうし、また、その地位を失えば、自分もそのようにするはずだからである。」 

白丁(はくちょう)とは、朝鮮において特定の身分を指した言葉であり、 中国・日本と朝鮮とでは異なる意味を持った。中国と日本の律令制においては、公の職を持たない無位無冠の良民の男子のことを指す。「白丁」の名は、無位無冠の者は色を付けた衣を身に着けずに白い衣を着けたことにちなむ。一方、朝鮮においては被差別民を指していた差別用語でした。

高麗時代までの朝鮮では、白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指す言葉であった。しかし李氏朝鮮の時には、白丁(ペクチョン)と呼び、七般公賤(官奴婢、妓生、官女、吏族、駅卒、獄卒、犯罪逃亡者) 八般私賤(巫女、革履物の職人、使令:宮中音楽の演奏家、僧侶、才人:芸人、社堂:旅をしながら歌や踊りで生計をたてるグループ『男寺党』、挙史:女連れで歌・踊り・芸をする人、白丁)と言われた賤民(非自由民)のなかで最下位に位置する被差別民を指す言葉になった。1423年、屠畜業者などに対する差別を緩和するために彼らを白丁と呼ぶようにした。だが良民は彼らを「新白丁」と呼びながら相変らず差別したし、徐々に「白丁」は賤民のみを指す言葉になった。

起源については大別して神話説と異民族説と政治犯説などが唱えられている。異民族説は高麗に帰化した中央アジア系の韃靼族が政治の混乱に乗じて略奪を繰り返しことや、低位の扱いを受けていた朝鮮族などが差別を受けるようになったのが白丁の起源であるとされているという説である。

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものである。

1.族譜を持つことの禁止。
2.屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことの禁止。
3.常民との通婚の禁止。
4.日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
5.瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
6.文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
7.他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
8.名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
9.姓を持つことの禁止。
10.公共の場に出入りすることの禁止。
11.葬式で棺桶を使うことの禁止。
12.結婚式で桶を使うことの禁止。
13.墓を常民より高い場所や日当たりのいい場所に作ることの禁止。
14.墓碑を建てることの禁止。
15.一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺された。その場合、殺害犯はなんの罰も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。

白丁は大抵、都市や村落の外の辺鄙な場所に集団で暮らし、食肉処理、製革業、柳器製作などを本業にしていた。白丁と常民の結婚は許されておらず、居住地域も制限された。また、高価な日常製品の使用も禁止されていた。農業や商業に従事することは禁止されていたが、李氏朝鮮中期になるとこの規制は緩み、農業などに従事していた者もいたようである。一方、国の管理に属さない化外の民であったため、戸籍を持たず税金や軍布(徴兵の代わりに収める布税)なども免除されていた。奴婢が国により管理されていたのとは対照的である。支出や行動が厳しく規制される反面、本業による手数料などを得ることができたことや、両班階級が財産を没収することすら忌み嫌ったために、李氏朝鮮時代に繰り返し行われていた庶民に対する過酷な財産徴収なども受けず、李氏朝鮮の中では唯一資本蓄積が可能な階級だったとも言われている。

1926年の朝鮮総督府の統計調査によると、当時の朝鮮半島の白丁は8211世帯、3万6809人にのぼる。職業の内訳で最も多いのは獣肉販売業で27.8パーセント。これに屠畜、製革、製靴など牛に関係する一連の職業をあわせると48.8パーセント。農業が25.2パーセント。柳器製造が10.6パーセント。飲食店や低級旅館の経営が5.8パーセントであった。

李氏朝鮮の時には免賤と言われる白丁階級からの解放もあったが、滅多に行われなかった。甲午農民戦争の時に農民軍は差別撤廃を主張したこともあったし、高宗時代の甲午改革の後、身分制度が廃止されながら白丁の身分も消えて国家官吏になる者も現れたが、差別は相変わらず残った。

1909年に日本政府によって韓国統監府が設置されると、戸籍制度を導入することで、人間とは見なされていなかった姓を待たない白丁を始めとする賤民にも姓を許可し、身分差別を撤廃した。また、身分を開放された白丁も学校に通うことが許可された。これに対して両班は認めないとして抵抗活動を繰り広げたが、日本政府はこれを断固として鎮圧した。しかし、履歴書などに身分を記入するようにして、戸籍上白丁は一般人と区別されるなど差別は消えなかった。1923年に白丁差別解消のための朝鮮衡平社が作られ、日本の水平社と協力して身分差別解消の運動を行っていた。だが共産主義と連関したと疑って弾圧したりしたし、解放運動家を「新白丁」と呼びながら侮辱する事もあった。

独立とその後の朝鮮戦争勃発による社会的混乱、工業化・民主化の過程での都市部への人口の移動によって、韓国の被差別階級は姿を消すこととなったが、現在もなお罵倒語として「白丁」(ペクチョン)「白丁野郎(ペッチョンノム)」という言葉が使われることがある。

北朝鮮は、「社会主義社会の下では、白丁問題は既に解決している」と回答しているが、実際には韓国の大統領を「人間白丁」と罵るように、差別意識は根強い。米国の北朝鮮人権委員会は Helen-Louise Hunter の Kim Il-Song's North Korea(ISBN 978-0275962968)から引用し、北朝鮮は1946年から全ての国民を支配階級/平民/被差別民の3つの階層に分ける出身成分制度により、李氏朝鮮の封建王朝のような身分制度を採用していると報告している。

現代では戦前戦中に不法入国して住み着いた在日朝鮮人を南北朝鮮本土では白丁と呼び蔑んでいる。


② 朝鮮で白丁が被差別用語となった時期(wikiより)

高麗時代までの朝鮮では、白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指す言葉であった。李氏朝鮮の時代に身分制度がさらに複雑化し、国王、両班、中人、常人、賤民(=賤人)に大別され、白丁は賤民の中の最下位に位置づけられた。白丁は「백정」(ペクチョン/ ペッチョン)と呼び、七般公賤(奴婢妓生官女吏族、駅卒、獄卒、犯罪逃亡者)、八般私賤(巫女、革履物の職人、使令:宮中音楽の演奏家僧侶、才人:芸人、社堂:旅をしながら歌や踊りで生計をたてるグループ『男寺党』、挙史:女連れで歌・踊り・芸をする人、白丁)と言われた賤民(非自由民)のなかで最下位に位置する被差別民を指す言葉になった。

1423年屠畜業者などに対する差別を緩和するために彼らを白丁と呼ぶようにした。だが良民は彼らを「新白丁」と呼びながら相変らず差別し続け、徐々に「白丁」は賤民のみを指す言葉になった。

起源については大別して神話説と北方異民族説と政治犯説などが唱えられている。異民族説は高麗に帰化した中央アジア系の韃靼族が政治の混乱に乗じて略奪を繰り返したことや、低位の扱いを受けていた朝鮮族などが差別を受けるようになったのが白丁の起源であるとされているという説である。ほかに、杜門洞七二人忠臣たちの志操説、楊水尺から始まった説がある


③ 胥吏(しょり、wikiより)

旧体制下の中国や朝鮮において、庶民でありながらも役人の仕事をする者を規定した用語である。正規の高等官僚としての官人と対応し、両者を併せ、「官人」の「」と「胥吏」の「」で官吏と呼ばれる。

高麗では、地方の豪族が任命されていたが、中央集権制と両班による支配が確立されると、胥吏の地位は低下した。李氏朝鮮では、世襲の賎民とされ、特殊な服装を強制された。俸禄を支給されなかったので、不正や収奪が横行した。吏属、衙前ともいう


④ 現代朝鮮民族(wikiより)

カトリック医学大学のキム・ドンウック(金東郁)教授と慶応大学の岡本真一郎教授がHLA(ヒト白血球型抗原)を分析した結果、日本人と比較すると遺伝的な同質性が低いという結果が出ている。大阪医科大学名誉教授松本秀雄は著書『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』で、「朝鮮民族は強く漢民族などの影響(混血)を受けており、これは中国と朝鮮との間の、相互移民や侵入などによって、北方少数民族や漢民族との混血の機会が多く、これが民族の形成に影響した」と述べている。HLA遺伝子による調査で朝鮮民族は満州族や中国東北部の漢民族と近い。 血統のルーツは現代アジア民族との繋がりは薄く、ロシアのエヴェンキ族と同一性が特に多く認められている。ユーラシア大陸内陸部から朝鮮半島への集団移住により定住したものと考えられる。


⑤ 高麗語(wikiより)、、、朝鮮語の前時代の言語

高麗王朝時代(918年 - 1392年)に同王朝の領域内で使用されていた言語のことである。

具体的にどのような言語が使用されていたかについては、資料的な制約のため中期朝鮮語ほど詳らかにされていないが、『鶏林類事』や『救急郷薬方』といった数少ない高麗語資料を見る限り、基本的には新羅語の流れを汲む言語であったと考えてよさそうである。ただし、語彙の上では高句麗語と共通するものも少数含まれていることから、高句麗語の影響も受けていることは確かである。


⑥ 中期朝鮮語(参考)

ハングルが作られた15世紀半ばから16世紀後半の壬辰倭乱(いわゆる秀吉の朝鮮侵略)までの朝鮮語を指す。朝鮮語の歴史的区分に関しては、学者によってかなりの差があるが、「中期語」という区分は日本の著名な朝鮮語学者である河野六郎博士の説による。

朝鮮ではハングル創製以前は漢字による自国語表記しかなかったため、ハングル以前の言語の姿は正直のところ全くといっていいほど分かっていない(だから、「万葉集は古代朝鮮語だった」などというのは100%インチキである)。そこで、ハングル創製以降から言語の様子ががらりと変わる壬辰倭乱までの朝鮮語を「中期朝鮮語」と呼んでいる。

なお、韓国や共和国では「中世語」と呼ぶのが一般的である。韓国では、高麗時代の言語を「前期中世語」、李朝前期の言語を「後期中世語」と呼ぶことが多い。