ダライ・ラマは言う。

寺院など必要ない。難解な哲学など必要ない。私たちの脳が、私たちの心が寺院なのです。やさしさが、わたしの哲学なのです。

逆に、タクトク僧院で一般講演(一般人も対象ということだ)

300巻以上に及ぶカンギュル(経典)とテンギュル(論書)は、論理と経験と瞑想を通して、仏陀の教えに対する疑いのない確信を持つための知識を体得するために活用するべきことを聴衆にアドバイスされた。

 

私は81歳になりましたが、今でも時間が取れるときにはいつでも、カンギュル、テンギュル、その他の仏典を読み、それについて考えを巡らしています。

若い世代の人々が仏陀の教えを学ばなければならないことは言うまでもありません。しかし年配の人であっても学ばなければいけません。

カンギュルとテンギュルというのは難しい哲学の大乗仏典である。しかも膨大な量である。それを学べというのである。
「寺院など必要ない。難解な哲学など必要ない。」はその正反対であるが、受けがよい。
向上のためには複数のアプローチ方法があり、仏教徒なら難解な哲学が必要で、仏教徒でないなら難解な哲学は必要ない、ということであろう。

 

宗教とは、人生の指針を指し示してくれるものであろう。
唯物的な、人間が確かめることができる範囲では、分からないことが多すぎる。何のために生きているのかすら分からないからである。
人生は、その人ごとに異なるから、その人事に様々な悩み苦しみに直面する。一見複雑である。しかし、智慧のある人は、物事の本質を見抜くことができる。Aという人もBという人も、こういう仕組みで煩悩に突き動かされてこのように苦しむ、だからこのように生きればよい、とシンプルに理解できるのである。
従って、人生の指針が、難解で分かりにくいものであれば、余計に迷ってしまう。理解を間違ったら、宗教を学んだゆえに、むしろ生き方を間違えてしまう。
ところが、多くの人は、難解な話を聞くと、深遠な話で、理解できたらスゴイ智慧が身に付くのではないかと勘違いしてしまう。

難解な仏教哲学は、智慧があれば、本来単純に見抜けるべき事柄を、わざわざ複雑にしている、人を余計迷わせることになるだろう。