私の父はちょうど6年前の今月に81歳で亡くなりました。

今日(9月23日秋分の日)が誕生日でした。

父は子供の頃からバイオリンを弾き、ハーモニカを吹くのが
大変好きで晩年もよく演奏していました。

愛媛の宇和島商業学校を出て大阪の日本生命
本社に勤務していました。外国に興味
があり仕事を終えて大阪外語大学・英語科の
夜間に通っていました。
同じ頃に司馬遼太郎がモンゴル語科に
居たようで同窓ということでした。
司馬遼太郎が宇和島好きと
言うこともあり父は彼のファンでした。

英語を学び将来は海外とのビジネスを夢見て
いたようですが戦争が始り英語は敵国語ということに
なった時代でした。赤紙の召集があり満州
の戦地に行くことになって夢が途切れた
ようです。大阪の食糧難などで戦後は田舎の
宇和島に戻り労働基準局の仕事を得ました。

父が体験した第二次戦争のことは私には多くを語りませんでしたが
父の随筆の中に「占守の春」という北千島の占守島(シュムシュトウ)
で体験した悲惨で不条理な戦争の話題がありました。

昭和55年(1980年)に父が労働基準局を退官
して記念に「占守の春」という題名の随筆
集を200冊程度出しました。地元の愛媛新聞の「伊予なまり」
などに投稿したものを載せたものでした。
愛媛新聞の「地軸」というコメント欄で父
の戦争体験記の紹介がありました。
論評は「どこにもドンパチの華々しい実戦はないが、
それだけになお戦争の持つ残酷さ非情さが
伝わってくるーーー改めて戦争体験をかたることの
貴重さを考えたい」というものでした。

今年は7回忌にあたるのでブログに載せようかと思っていました。
たまたま先日の朝日新聞の「写真が語る戦争」という特集記事で
来月12日に次回は「北千島の戦争」という予告
がありました。舞台は占守島ということです。

天国の父が戦争を知らない世代の人達に
一人でも多く「占守の春」を読んで欲しい
と希望しているのかなあと感じました。

父は戦後の平和な時代を喜んでいました。フォーク・ソング歌手の
ピート・シーガー、ジョーン・バエズとの出会いもあり
「花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone?)」
「勝利は我らに(We Shall Overcome」などの反戦歌を英語でよく口
ずさんでいました。


随筆の本では17ページぐらいの内容ですが7回ぐらいに分けて
ブログに載せようと思いました。 

どうぞ読んでください。

(*注 ノンフィクションですが人名は
都合でかえているようです。)


 「占守の春」

”男一度戦いに立てば北の守りよ国の為盾と雪に命を捨てて
やがて咲くのだ、がんこうらん やがて咲くのだ、がんこうらん”
(N中隊長作詞・作曲)

もうあれから25年(随筆当時)も昔のことであり、あの時の記念の
「がんこうらん」の煙草パイプもトッカリの皮の手製の図嚢(ずのう)も無くなり
又その上貴重な当時の私の従軍日記も数年前に自宅が今治市で
類焼にあい消失した今日、すかっり正確さが薄れてしまった
のであるが、私としてはどうしても現代の恵まれた社会だからこそ
尚更に忘れてはならなく書き残して置きたい記録である。

これは一つの孤島の生活体験記と言うのか
或いは戦記というべきか、現代の感覚では考えられない経験である。
そこには常に週刊誌等で書かれているような戦闘の華々しさもなく又
旧軍隊で日常起こり得る残虐性もあまり見られず憎しみも
憤りもなく一種の諦めに似た感情の下で偏ら皇国の
為に上司の命に従って戦っていた純心忠実な
若者達の群像図があった。

1. 占守島上陸の頃

丁度昭和18年の末の頃であった。それ迄私が居た隊は
「満州の鬼独歩」と言われおそれられたていた
独立歩兵守備隊吉林590部隊であって吉林省内の
守備に当たっていたが、或る日突然関東軍司令部
より北方転出命令が下されたのである当時私は兵長
として従軍していたが目隠しの儘(まま)あれよあれよと
言う暇もなく内地を通り越して昭和19年1月には
北海道の小樽市まで移動していたのである。

小樽市の人々の人情の温かさその奥沢町という町で許された
最後の二泊の民宿の楽しかったことは未だに
忘れ得ない思い出である。それより20日間程して
各隊集合して御用船高島丸(5000屯)に
乗り込んだ、荒れ模様の北海を、さまようように
5日間程ジグザグ航行してついに命令
最終目的地である北千島の占守島に上陸したのは猛吹雪の
日であった。

占守島と言えば読者の方は多分ご存知かとは思いますが、
近年日ソ漁業協定等でクローズアップされた北千島列島でも
最北端にある周囲約70キロほどの蚕豆型の小島である。
その占守島の向かい側には幌筵島(ホロムシロトウ)と
又その南寄りには俗に「北千島富士」と呼ばれる
アライド島がぽっかり浮かんでいる。

「わいわい」と未だ兵隊さん達の間では小樽市での
楽しかった思い出話が消えない時、
松田大隊傘下の中島中隊はこの孤島西出
と言うところの今は全く人気の無くなった
缶詰工場跡の中に宿営を重ねて次に来るべき
命令を待機していたのである。

「除雪作業だ!! 除雪作業だ!!」との命令を
まもなく受け取った。この作業は毎朝4時に起床した。
(占守の朝は特に早い3時頃には夜明けである。)
それより宿舎を出て3時間も行軍し西出飛行場に
到着それからその飛行場の滑走路の除雪作業を
行うのである。急に命令が出たのは何でも噂に
よれば此の度の除雪作業のを行う目的は
函館司令部より某参謀官が北方の守りの
状況視察にくるとかでそれもたったの1日
飛行機で来ることに対して全部隊で
飛行場の除雪作業に従軍せねばならなかった
のである。

この除雪作業はスコップで雪を切りそれを橇(そり)
に乗せて滑走路外に搬出するのである。
なかなかの苦労で又はかどらない作業である。
(今日の機械化からみれば馬鹿げた話である)
これには我々松山大隊の外三箇大隊が出て一緒に
従事したが何分にも広大なる飛行場の除雪を
全部人力で除くのであるから労苦には
筆舌に言い尽くせなかったのである。
それでも雪国出の兵隊はスコップを使う
雪切が実に上手であった。南国出身の
私には思うように出来ない、へぬるいことである。
(へぬるい とは軍隊用語で のろま の意味)

初日目を、やっと汗だくで終わり、ドタ靴をひこずって
宿舎に帰った。給与は在満当時に比べて
ぐっと悪くなった。とにかく孤島でもあり、この頃に
既に米潜水艦もぼつぼつ出没し時に日本の
輸送船団もやられていたし、又この孤島では
全く生野菜が手に入らない状態であったのである。
飯と言えば昆布飯である。これは玄米四分と占守の
海岸でとれる昆布をきざんだものを六分入れて
見た目は量をすっかり多くして支給されていた。
それにおかずは乾燥かぼちゃの汁である。
それでも時々塩鱒の一切れや例のタラバ蟹が
少量上がることもあったが、いずれにしても
昼間の重労働に対して栄養失調は免れない
(事実、後日栄養失調で少年兵が数名死亡した)
占守島の形は休火山の為か滑らかで
殆ど草木は見当たらない。僅かに雪の間に
「きんろう梅」の低い小枝がのぞいている。
このような状態で何もかも物資は節減されて
いたのである。

私は三日目の除雪作業を終わり帰舎したところ
急に発熱した、それまでA型パラチフス患者が出たと
言う噂を聞いたが、まさか自分は罹(かか)らないないと
信じていたし、又兵長と言う立場で最初に
へたばってはと頑張っていたが翌朝頭が
フラフラしてどうにもならない。それにひどい
下痢が加わった。終いに軍医に申し出て
診断を受けた結果A型パラチフスと判明し
大騒ぎとなったのである。私は不名誉にも
それから戦友と別れて幌筵島(ホロムシロトウ)に
ある陸軍病院に入院し苦しい療養を続けて
やっと退院を許され復隊したのはその年の
5月の初めであった。

占守の五月は内地の三月頃である。
島の春は「がんこうらん」の綻(ほころ)びで
始まると言っても過言ではない。
それ程にこの「がんこうらん」は島一帯を
覆って又、極めて小さい花が一杯に
咲く、とにかく緑色の、こけの様な
草木が競って茂りその中に花が散らばりお互いに
手をつないでいる。
そして向こう側のアライド島の姿が
又カムチャッカ半島が海上にその姿を
はっきりと現してくるのである。
この頃迄は例の猛吹雪と風に
悩ませられ通しである。

ー 続くー