沖ペディア。

沖和彦(Kazuhiko Oki )
職業:プロランニングコーチング
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1986年生まれ。男性。A型。
日本の滋賀県の唐崎にて産まれる。
その後直ぐに大津市日吉台にて暮らす。
小学校5年生の時に知人に誘われサッカーを始める。小学生の頃は直ぐに人の真似をする癖があった。厄介なことに人の性格まで真似をするので親を困らせていた。
中学では中二病にふさわしくへそ曲がりで親への反抗をかかさず行っていた。本当に好きな人がいても「俺は好きじゃないし」と偽り、好きなサッカーチームが他の人と一緒になると敢えて違うチームを言っていた。因みに当時は鹿島アントラーズが好きだった。日吉中学校に入学し、サッカー部に入っていたが、部活からの帰宅は1人で帰っていた。この頃から団体行動が面倒臭いと感じていた。高校は「近い」という理由で堅田高校にした。数ある手抜きの中の一つとなってしまった。(現在はこれはこれで良き日々だったと感じる)
高校の時に陸上部に入る。直ぐにシンスプリント座骨神経痛とは立て続けに怪我に襲われるがめげずに続ける。
しかし3ヶ月が経とうとした頃、辞めることになる。「人に命令されてやるのはストレスしかなかった。」「怒鳴られて、叱られて成長するタイプではなかった」当時を振り返るとそんな思いだった。後にこの経験が相手を尊重する姿勢に繋がったと考えられる。

大学時代、陸上部に入るが思った結果は出ず。印象にあるのは学食で食べた260円のコロッケ丼が思い出の味。振り返ると、小・中・高・大と協調生を重視した指導に対応できなかったと思う。
そしてこの頃は本当に自分が目指したいものや目的がはっきりしていなかったのも事実。
それでも走る事は好きだった。
(美味いものを食べたいだけ食べるには運動が必要であり、ランニングがそれに該当した。)

2008年の学生最後の年の11月に愛の土山マラソンを走る。大学4年生の時で人生初マラソンとなる。が途中棄権してしまう。マラソンの練習をせずに挑んだ事に後悔。もう走りたくないと思う。帰りに見に来ていた親父と王将へ行った記憶がある。この大会以降、愛の土山マラソンに出て終わった後は親父とご飯を食べに行くという通例行事になった。

2009年には前職を早々に辞め転職を決意する。自分には何があっているのだろうか。唯一体を動かすのは好きな方だと思い
タウンワークを見て目にとまったGUNZEスポーツクラブに応募する事になる。決めては実弟の沖典彦に「一度行ってみては」の一言で行くことを決意し、採用される事になる。この頃の休みの使い方は酷く、木曜日の仕事を終え夜中に帰宅し夜通しゲームをするという昼夜逆転生活を送る。聞こえは何だかカッコいいが何も得るものはない。実家にいるのに誰とも会わず且つ不健康極まりない生活であった。しかもこれを「毎週金・土と2日も送っていた。」夕日が落ちるのを見て「なんであんな無駄な時間を過ごしてしまったんだ。。。」と毎回、後悔に陥る。所謂廃人生活を送っていた。これを繰り返しようやく「こんな生活は辞めよう」「もっと人間的な生活をしよう」と心に誓う。ある意味、更生を誓う。
振り返れば人はどんな状態からでも変わる事が証明できた気がする。

2010年、11月に福知山マラソンに出る。GUNZEが福知山マラソンのスポンサーとなっていた事からマラソンの存在を知る。そしてGUNZEには小林玲子(ReikoKobayashi)さんと言う偉大なランナーがいる事もこの時知る。マラソンに向けて熱が入りだしたこの頃の練習は実家の日吉台から南草津の片道17キロを走っていた。(通勤ラン)偶に夜終わって片道17キロを走る事もあった。帰ったら26時になっている事もあった。ただ闇雲に距離を踏む練習をしていた。
当日は、2'51で見事サブスリーをする。知られてはいないが、この時電車が間に合わず途中の園田駅から見知らぬ人と相乗りで三段池公園までタクシーで行ったこと。前日からお腹の調子が悪く、ハーフぐらいの距離で途中トイレに行ったこと。
次の日には日吉台の実家から南草津までを出勤ランニングをしていた。

2011年 昨年の良いイメージがあり、福知山マラソンに再度チャレンジ。3年後に2'30を切ってびわ湖毎日マラソンに出たいという無謀な事を目標にした年であった。この年の6月から北伊丹に住み始め、練習環境が変化した。主に猪名川瑞ヶ池公園、夏には暑さをしのぐために昆陽池公園で走る事となる。福知山マラソンを前日に控え、高熱を出してしまう。そして当日のレースでは2'40台を目指していたのについつい周りにつられてペースアップしてしまい30K付近で途中棄権。マラソンの怖さを早くも知ることとなる。そして収容バスではただならぬ雰囲気を味わう。「この世のものではない様な暗さが漂っていた。」これ以降の途中棄権は現在までない。この時小林玲子さんは優勝。マラソンは経験がいるスポーツなのかなと感じた。

2012年 2月に口熊野マラソンに出るが、全く練習をせずオーバーウェイトだった。完走したものの3時間19分という事で自信を失っていた。あまり知られてはいないが行き、帰りとバイクで和歌山まで行ったが、低体温症になっていた。これ以降冬にバイクに乗ることは極力控える様になる。
マラソンで自信喪失してしまい途方に暮れており、休みの日もパッとしない日が続く。そんな中で「休みを少し充実させたい!」という思いで、大会にエントリーする様になる。体重が落ちると共に少しづつ走れる様になって行く。7月には大阪城ナイトランに出場。しかしこの大会で1位でゴール直前まで来てゴールを通り過ぎるというハプニング。結局コースアウトしてDNFになる。以後、暗いレースでは慎重に走ろうと決意する。そして8月からG-SPORTS-STUDIOに移動となりここでも運命的な出会いが待っていた。10月からは兵庫区に住む事となる。そして11月には3度目の福知山マラソンがやってきたが環境のせいにして殆ど距離を踏まない練習のみ。前半は勝てもしないのに小林玲子さんの後ろにつく。後に語られていたのは「つかずに引っ張らんかいな。」という事だった。残念な事に引っ張る度胸と余裕がなかった。後半は失速してしまい、2時間50分でゴールする。今思えばタイムが出なくて当たり前だが当時は「これが自分の限界では」と落胆していた。小林玲子さんは優勝。知られてはいないがこの時、早朝の神戸駅発・福知山着で会場に向かったのだが、3時間以上立ちっぱなしで走る前から脚がガクガクであった。帰りも立っていた。次回からは折りたたみ椅子を持っていくと心から誓った。そして帰りは即発生筋肉痛で階段はびっこを引いていた。完治まで一週間を要したことからやはりある程度の走り込みは色んな意味で必要だと感じた。

2013年別府大分毎日マラソンに参加する。2'42を切って福岡国際マラソンに出ようと誓いを立て走るが19'10で押していけたのは30キロまで。40キロは付近では松井祥文さんに肩を叩かれ抜かれて終わってしまう。タイムは2'48台と自己ベストだったが悔しさが残る。
後にこの時の悔しさが秋以降のモチベーションに繋がる事となる。なおこの時、トレイル・ウルトラランナーであるターミネーター・吾妻良則も同レースに出場しており、後のランニング仲間となる。知られているかわからないが吾妻良則を通じて後に参加する「裏六甲サブスリー」の存在を知ることとなる。

それからわずか2ヶ月後の4月には滋賀マスターズの方々と大邱国際マラソンへ参加することに。しかし当日の朝、地震が起こり、JRが全線ストップし、空港に着くか微妙なことになる。がなんとかKIXまで到着し、韓国へ行くことに成功。しかしお酒を強要され少しフラフラの状態で明日を迎えることになる。そして翌日、初海外マラソン。2時間49分台だった。ドラマはマラソン後に待っていた。直ぐにマッコリをグビグビと飲みバスの気持ち悪さも重なり大変なことになりました。クラクラの状態で射撃を行いえらいことになっていました。ある意味フルマラソンよりも大変でした。

そして帰国した後、そのままGUNZE神戸の飲み会に。ここで初めて吾妻良則さんと出会う事になる。韓国のお土産に買った「虫を蒸した缶詰」を購入し、皆に渡すと、悲鳴が上がったことは安易に想像できるかと思います。

この夏関西のランニングクラブの松井祥文さんが運営するあすりーどの方々と縁あって、リレーマラソンに出たり、30キロ練習会をさせて頂く事に。マラソン練習の礎となる期間をこの時過ごす事となる。秋のレース一発目はあいの土山マラソン。2008年奇しくも途中棄権したレースだったが今回は2時間44分台で完走&自己新記録を出す。(余談だが、この時も親父と王将に行った。)
そして翌週には赤穂ハーフマラソンを1時間13分台で走り自信をつけ、神戸マラソンに挑む事に。神戸マラソンでは女子のトップ選手と並走する事に。
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最後は空気を読んだというか、田中選手の凄さを感じました。知られてはいませんが35キロのバイパスの坂でふくらはぎが痙攣していましたが田中選手のピッチに合わせた事で走りきれました。結果走りご覧の通り自己記録更新でした。この時は流石に嬉しかった。30分切りへの山の頂上が少し見えかけてきた瞬間だった。

そして次の防府マラソンで更に33分に記録を更新。途中にセブンイレブンのトイレに行って3分30秒ほど待っていたというのは笑い話です。しかし33分で走れたのは後半神風が吹いたもので自分の中実力ではなかったことからこれ以上は無理かなと頭で思ってしまった。

2014年、3月の静岡マラソンで30分切りを目指し出走するが敢え無く30キロから失速しタイムは2時間40分に終わる。富士山も自分の良い結果も見れなかった。この時、右足の足首周囲の故障や2月の中頃に胃腸風邪で寝込んでいたこともありメンタル的にもフィジカル的にも厳しいレースであった。これが来年度のモチベーションにつながった事は言うまでもない。

4月になり足首の痛みがマシになり練習を再会し、トラック競技にも出る。主に5000m、10000mに出て最大スピードをあげ、マラソンに繋げるという狙いだった。
例年なら毎年7月の滋賀県選手権に出る程度であったが2014年は4月からトラックでスピードを磨く事に。5月には初めて関西実業団選手権に5000mと10000mで出場。
レベルの高さを痛感するがこの時期に基礎スピードを上げていたことは後の結果に繋がったと感じる。
9月には初の100キロに挑戦。翌月に大阪マラソンを控えており、この時期に100キロは無謀と言われたが丹後ウルトラマラソンに出場し完走する。マラソン以上の感動と忍耐を学ぶ。
10月末の大阪マラソンでは34分台の記録を出すが、靴下に失敗したと反省すると同時に暑かった。収穫としては静岡マラソンの時のように前半を1時間15分で走って後半の落ち込みが少なかったことであった。
今のスピードを維持しつつ、スタミナをつける事に着手する。
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そして11月の神戸マラソンでは2時間31分台を出す。この時次で30分を切る手応えを感じる。そしてこの神戸マラソンの時に後に台湾に共に行く事になる森貴行と出会うこととなる。結果的に、この出会いが1年後の独立へと加速きっかけとなる。
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(写真)森貴行:同学年であり、ダイエットとランニング専門のパーソナルトレーナーとして神戸・大阪にて活躍。

12月には福岡国際マラソンに出場する。
当日の朝は吐き気がしてスタートギリギリまで寝ていた。そして知り合いの愛犬の飛鳥(あすか)が天国に行った事を当日の朝に聴いて飛鳥の分まで必死に走ると心に強く持って臨んだ大会だった。スタートしてから神戸マラソンの時にできた足裏の血豆が完治せず設置するたびに右足が痛かった。
途中で辞めたいくらいだったが、なんとか耐えた。後半35km地点から落ちかけたが、「なんとか飛鳥のために」という事が脳裏に浮かび、耐えれた。2時間27分06秒で初の30分切りとなり、嬉しかった。
人は何かの為に生きるということはとてつもない力を産むのだと感じた瞬間だった。
この記録は沖和彦のパーソナルベストである。(2016年6月時点)

しかしその直後に仙腸関節炎になり、練習ができなくなる。3月のびわ湖毎日マラソン出場に暗雲が立ち込めることに。それでも雄谷インストラクターの施術により1月上旬には走れるようになる。沢山の方に人に感謝しているが、特に雄谷インストラクターには一番感謝していると言えるぐらいメンタル的にもフィジカル的にもサポートして頂いた。

そして1月、2月で3本のハーフマラソン(浜寺ハーフ・神戸バレンタインラブラン・出雲くにびき)に出てスピード感覚を体に覚えさせ、3月のびわ湖に臨むことになる。

初のびわ湖毎日マラソンは地元という事もあり、又怪我あけ初のフルマラソンという事もあり、私の心は期待と緊張で包まれていた。更に初めて家族が沿道に声援しにきた大会だったので少なからず、気合が入っていた。雨降るレースとなったが、沢山の応援と神戸という環境・雄谷インストラクターのサポートのお陰で最後まで走りきれた。
2015年3月6日は一生忘れられない日となった。又この年は70回記念大会の為に完走者には特別に額に入ったフィニッシュ地点の写真を贈呈して頂いた。
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この写真はGUNZESPORTSに飾って頂くこととなる。個人の記録を表彰してもらえる自分は幸せ以外の何物でもなかった。
23歳の時に立てた「びわ湖毎日マラソンに出る」という壮大なプロジェクトはここに終幕する事となる。次の目標は暫く見つからないと自分自身感じていた。
しかし、これからも走る事は続けていきたいと心から思った。
余談ではあるが、びわ湖毎日マラソンの時、家族は大津パルコ辺りで応援しており、私が通った時ちょうど母親はトイレに行っており私の勇姿を見れなかったようであった為、2017年に持ち越しという事になった。

皆さんから言われた次なる目標でえる25分台を目指して走った徳島マラソン(3月後半)は後半失速して目標叶わず。この目標はまだ先かなと心の中で感じる。
別の目標が定まらない中、やはりここでも松井祥文さんの「何気なくどこかの大会で優勝してみては」という目標を立て、更にカンボジアの国籍を取得して第二の猫ひろしさんとしてカンボジアでオリンピックに出たいという夢のような目標を立てる。

そして5月に人生が変わる瞬間がやってきた。滋賀県高島市で初開催されたWings For Life World Run で優勝させて頂くことなった。優勝はしたが、優勝した事で感じる周りからの迎えられ方に違和感を感じつつも素直に嬉しかった。因みに余談だが履いていたナイキのシューズが少し大きくて足にフィットせずに両足の親指の爪が剥がれてしまった。非常に痛かった記憶がある。又、夜に走ったことで普段攣らないももの裏がつるなど異変に見舞われた。後にわかったが、肝臓に負担がかかっていた。

そしてその後の富山清流マラソン、プノンペン国際マラソンで立て続けに優勝する。
夢のような5月であった。
いずれも5月の出来事であった。しかしこの頃から疲労はピークに達しており、体が思うように動かなかった。単なる疲労と思っていたが後に入院することとなる。

6月に入っても体調は完全復調せず、たたらぎダム湖ハーフ・残酷マラソンと思うように走れなかった。そればかりか毎週原因は不明の熱を出していた。免疫が弱っていたのか未だになぜ熱が出たのか不明である。ちなみに残酷マラソンでは団体で2位に入り肉を手に入れたが、食べずじまいであった。それと残酷マラソンのコースは凄まじいアップダウンで「もう出るものか!」と言い放って美方郡を後にした。

7月は神鍋のトレイルラン・ノエビアリレーマラソンに出て大会を楽しんだ。そして8月半ばにまたしても高熱が出ることに。風邪ではないのでロキソニンで熱をさげるに留まる。ほぼ盆休みの3日間を寝るだけに費やす事になりそれでも良くならないので3度目の病院へ行きそこで採血をしてもらい原因がわかる。肝臓の炎症だった。直ぐに緊急入院する事となるが内心は「5月半ばからの体の不調の原因がわかってホッとした。」肝臓の炎症を抑える抗生物質により全身が痒くて夜中寝れず、疲れ切った朝に寝る生活が続いた。又朝起きると立つのが精一杯という状態で秋のフルマラソンはムリかもしれないと感じるほどであった。
3週間ほどして退院した日の夜には久しぶりのカレーを食べた。当たり前の事だが好きなものを好きな時間に食べれるという事、シャワーを浴びれること。お見舞いに来てくれる方々がいること全てに感動した。この時、沈黙の臓器の怖さと、体を労わる必要性を身を以て感じた。
余談だが、入院して直ぐ「チキンカツ」が無性に食べたくて、昼間にこっそりと抜け出して近くの鬼平コロッケにチキンカツを2枚買いに行って、病院食と別で1週間ほど毎日食べていた。すると入院中一週間後の検査では肝臓の数値が悪くなっていたので、笑えなかった。数値が少し良くなりだしてからは今度は味沢という店の唐揚げを何回か買いに行きました。唐揚げがゴツくて美味しかった。意外に入院生活は楽しんでいたように思います。

因みに、退院した日に20分ほど歩いて、次の日に筋肉痛であった。流石にショック大吉であった。そして退院して間もなく転勤で滋賀に戻ることとなる。神戸の環境が好きであった自分には辛いものとなった。
そして11月の福知山マラソンで入賞する事を視野に入れリハビリする事となる。

10月にあざいお市ハーフ、神戸森林植物園20K、11月のあいの土山フルで調整する事となる。余談ではあるがあいの土山では8位入賞を果たしたが、ラスト1kmで前を走る2人のランナーが脚を攣って止まっていたという珍事件により入賞する事となり、最後まで諦めないという事は大事だと感じた。
そして迎えた自身4回目の福知山マラソン。退院した時は歩いて筋肉痛であった体が2ヶ月半で2時間33分で走れる事になるとは誰が想像しただろうか。自分が一番驚いた。これは自分の力ではなくて他人の力が大きい。折り返してからのGUNZEの皆さんの声援や、SNSでの応援のメッセージなどが自分のパワー以上の力を出させてくれた。ここでも人の力は凄いと感じる。
そして3月に立てたカンボジアの夢はこの時途切れる事となる。2020年を逆算して不可能だという結論に達する。と同時に塞がっていた扉が開いたかのようにランニング事業をしていきたいという事が想いが止められなくなってしまう。目標が叶わなかった時、人は次の道を選ぶこともできる。世の中には仕方がある事と仕方のない事の二つがあり今回は仕方の無い事であった。この経験から極力、仕方のある事はがんばって仕方の無い事に関しては諦めて次へ行く勇気も必要だとい打ち合わせ事を思うよになった。

12月には京都の高雄マウンテンマラソンといういかにも坂道がキツイというようなハーフマラソンに出ました。の大会後にスポーツ喘息(ぜんそく)になってしまいました。この為、次の日からの仕事では声が出ずに大苦戦。声は治ったものの、運動すると咳込んでしまう症状は3月頃まで続くことに。。

2016年年が明け、(今回で3回目)恒例の東近江元旦マラソンに出場することに。
この時一年の始まりの日にサロマ湖ウルトラマラソンで良い成績を出したいという目標を立てる。そして、①サロマ湖で良い結果を出すには今の環境ではムリだ、そして②サロマ後はランニング事業をしていくからその準備をしたいから今の環境ではできない。その①、②の理由でGUNZEを辞める旨を伝える。不安はないと言えば嘘になる。どうやって生計を立てていこうか。そのことばかりを考えていた。自分で辞めるといったのに「本当にこれでいいのか?大丈夫なのか?」と自問自答することが続いた。(これは2016年6月になっても偶にふと考えてしまう事がある。)

しかし不安よりも自由を手に入れたいという想いが大きかった。そしてランニングで人生を広げていきたいと。

会社というのは家族みたいなものだと思った。楽しいこともあれば楽しくないことも不満な事も勿論ある。しかし結局は家族や会社に育ててもらったから色んな知識がついたり、もっと言うと毎日ご飯が食べれたりするわけだ。だからGUNZEには感謝である。

こんなことを言っているが当時はそこまで思えなかった事も事実だ。

そして2月の口熊野マラソン(2回目)ではリベンジレースをすると誓い2時間34分。予定では32分を、狙ったが体が動かなかった。さらに3月の篠山では5km地点で体が動かなくなり、ジエンド。40分近くかかるレースとなった。

そして3月末をもって会社を退職する事に。

4月に入り練習量は増え、徳島マラソンでは復調の兆しを示したかった。(前日は人生初のテント泊をして過ごす。朝起きたら二日酔いのように頭が痛かった。)
後半に上げる予定でいたがペース維持程度で終わってしまった。(2時間36分)

5月に入り昨年に続きworld run を走ることになる。台湾での出場だったが暑さに苦戦し、2位に甘んじる。あの時○○だったらとかそんな事を言う時点でレベルが低かったと今、振り替える。
目的や目標に対してスタート前までの自分のとった行動があまりにもずれていた気がした。やはり人生は甘くない。

ワールドラン以降、気が抜けたのか走る気力がなくなり、3月の時の様な状態に戻る。「走らなくちゃいけない」「練習しないといけない」いつの間にか「やらされているランニング」になっていた。 

いとも簡単にサロマでは良い結果はムリかなと客観的に判断できた。

そんな想いをもち、内心ホッとした。6月は予定していなかった日体大記録会に出場し、柴又60kmでは練習量のつもりで出場。

そしてサロマへと続く事となる。