大雪の大晦日が一夜明けて、清々しい新年を、実家で迎えた。
昨年100歳を迎えた祖母と、「昭和4年生まれ」の母(西暦がわからない母は、細木数子の六曜占星術で自分がなにかわからないのが不満という76歳)の二人を見舞うために、思い立って帰ったのだが、祖母の介護が思いのほか大変なのに驚いた。
もちろん、もっと深刻な方たちはたくさんいるのだろうけれど、元気なだけに、母は食べさせることと「下の世話」に明け暮れていた。
母は、嫁に嫁いで以来、子どもの世話に明け暮れ、晩年は父の母である祖母の世話に明け暮れ、「自分」というものをどこかに置いて滅私奉公に明け暮れるような生き方をしていた。
だからだろう。ずっと恨みがましいことばかり言っていたのだけれど、祖母が100歳の声を聞くあたりから「お母さんに世話になって、ありがたい」と言うようになり、そんな祖母を看るうちに、親戚の叔母さんいわく、「顔つきが変わった」(やっと、やさしく、落ち着いた顔つきになったという)
祖母は気が強く、働き者で、90歳を過ぎても畑仕事をしていた。それが自慢だった。
「金さん銀さんは仕事もしないでテレビに出てるが、自分は仕事(農作業)をしている」といっていたくらい、畑仕事に精を出していた。
祖母がだんだん動けなくなり、家から出られなくなってから、母が農作業をやるようになった。
「作物を育てるのがこんなに楽しいなら、もっと早くからやればよかった」と言いながら、見よう見真似で野菜づくりをするようになったが、そんな母に、祖母は「あれはどうした」「これはどうだ」と口やかましかったこともあった。
口やかましく、病気ひとつしなかった祖母が、小さくなって、母に「ありがとうございます」と丁寧に礼を言うと、母は「悲しい」と言っていた。
「あんなにうるさい人が、あんなふうになってしまうなんて・・・」
1月1日、祖母は元気で、よくしゃべった。
祖母はオシャレで、私がいつも化粧品をプレゼントすると喜んでいたので、顔を熱いタオルで拭いてクリームを塗って「化粧気分」にしてあげた。
口の中が気持ち悪そうだったので、歯ブラシで隅々まで洗ってあげた。
mixiで知り合った茨城の方が送ってくれたつきたてのお餅を小さく切ってお雑煮に入れたら、全部たいらげてくれた。
夜は、うどんを食べさせたら「誰がつくったの?」というので「お母さん」というと「おいしいねえ」といって、小さな茶碗一杯くらい食べた。
本当なら元旦のうちに東京に戻ろうと思っていた私は、「いったいいつ帰ろうか」、「今後、どうしたらいいだろうか」と考えていた。
一日と一晩、ご飯を食べさせ、トイレに行かせ、紙おむつの交換をしたところで、とてもじゃないけれど、母ひとりにまかせておくのは申し訳ないと思いはじめていた。せめてヘルパーさんが来てくれるまでは、たいして手伝えないにしろ、いないよりはマシだろうと思ったのだ。
朝7時。
母の「おばあちゃんが死んじゃったみたいっ!」という声で起こされる。
祖母の部屋に行くと、母が祖母を叩いたり、触ったりしていた。
眠っているような様子で、まだ首すじのあたりは暖かかったが、身体全体が冷たくなっていた。
父のときは癌で長いことないと聞いていたけれど、「死」があまりにも突然に思えて、私のなかで長い間、受け入れることができなかった。
祖母の場合はほんの数時間前まで話をしていて、食事をしていたというのに、文字通り「安らかに」召され、「悲しい」という気持ちよりも「長い間、お疲れ様でした」と、心から手を合わせる気持ちになった。
まさに、大往生。
すばらしい生き方をしたと思う。
私はなんとなく「おめでたい」気分になっている。
母を支えること以前に、まずは自分自身がしっかりしなければと思いながら、東京に戻ってきた。いつ死んでも悔いのない生き方ができたらいいと思う。
細木数子さんの占いによれば、今年の私の運勢はとてもいいらしい。
いい占いは信じよう。いい年になるようにがんばろう。
個人的なことを長々書いてしまったけれど、ここまで読んでくださった方、どうもありがとう。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年100歳を迎えた祖母と、「昭和4年生まれ」の母(西暦がわからない母は、細木数子の六曜占星術で自分がなにかわからないのが不満という76歳)の二人を見舞うために、思い立って帰ったのだが、祖母の介護が思いのほか大変なのに驚いた。
もちろん、もっと深刻な方たちはたくさんいるのだろうけれど、元気なだけに、母は食べさせることと「下の世話」に明け暮れていた。
母は、嫁に嫁いで以来、子どもの世話に明け暮れ、晩年は父の母である祖母の世話に明け暮れ、「自分」というものをどこかに置いて滅私奉公に明け暮れるような生き方をしていた。
だからだろう。ずっと恨みがましいことばかり言っていたのだけれど、祖母が100歳の声を聞くあたりから「お母さんに世話になって、ありがたい」と言うようになり、そんな祖母を看るうちに、親戚の叔母さんいわく、「顔つきが変わった」(やっと、やさしく、落ち着いた顔つきになったという)
祖母は気が強く、働き者で、90歳を過ぎても畑仕事をしていた。それが自慢だった。
「金さん銀さんは仕事もしないでテレビに出てるが、自分は仕事(農作業)をしている」といっていたくらい、畑仕事に精を出していた。
祖母がだんだん動けなくなり、家から出られなくなってから、母が農作業をやるようになった。
「作物を育てるのがこんなに楽しいなら、もっと早くからやればよかった」と言いながら、見よう見真似で野菜づくりをするようになったが、そんな母に、祖母は「あれはどうした」「これはどうだ」と口やかましかったこともあった。
口やかましく、病気ひとつしなかった祖母が、小さくなって、母に「ありがとうございます」と丁寧に礼を言うと、母は「悲しい」と言っていた。
「あんなにうるさい人が、あんなふうになってしまうなんて・・・」
1月1日、祖母は元気で、よくしゃべった。
祖母はオシャレで、私がいつも化粧品をプレゼントすると喜んでいたので、顔を熱いタオルで拭いてクリームを塗って「化粧気分」にしてあげた。
口の中が気持ち悪そうだったので、歯ブラシで隅々まで洗ってあげた。
mixiで知り合った茨城の方が送ってくれたつきたてのお餅を小さく切ってお雑煮に入れたら、全部たいらげてくれた。
夜は、うどんを食べさせたら「誰がつくったの?」というので「お母さん」というと「おいしいねえ」といって、小さな茶碗一杯くらい食べた。
本当なら元旦のうちに東京に戻ろうと思っていた私は、「いったいいつ帰ろうか」、「今後、どうしたらいいだろうか」と考えていた。
一日と一晩、ご飯を食べさせ、トイレに行かせ、紙おむつの交換をしたところで、とてもじゃないけれど、母ひとりにまかせておくのは申し訳ないと思いはじめていた。せめてヘルパーさんが来てくれるまでは、たいして手伝えないにしろ、いないよりはマシだろうと思ったのだ。
朝7時。
母の「おばあちゃんが死んじゃったみたいっ!」という声で起こされる。
祖母の部屋に行くと、母が祖母を叩いたり、触ったりしていた。
眠っているような様子で、まだ首すじのあたりは暖かかったが、身体全体が冷たくなっていた。
父のときは癌で長いことないと聞いていたけれど、「死」があまりにも突然に思えて、私のなかで長い間、受け入れることができなかった。
祖母の場合はほんの数時間前まで話をしていて、食事をしていたというのに、文字通り「安らかに」召され、「悲しい」という気持ちよりも「長い間、お疲れ様でした」と、心から手を合わせる気持ちになった。
まさに、大往生。
すばらしい生き方をしたと思う。
私はなんとなく「おめでたい」気分になっている。
母を支えること以前に、まずは自分自身がしっかりしなければと思いながら、東京に戻ってきた。いつ死んでも悔いのない生き方ができたらいいと思う。
細木数子さんの占いによれば、今年の私の運勢はとてもいいらしい。
いい占いは信じよう。いい年になるようにがんばろう。
個人的なことを長々書いてしまったけれど、ここまで読んでくださった方、どうもありがとう。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。