我々日本人が愛して止まない「桜」だが、この「サクラ」は
実は、日本神道から生まれた言葉だそうである。
天照大神の孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)と結婚した、
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の「サクヤ」が、
「サクラ」に転じたと言われている。古代より我々日本人は、
桜の開花に、「日本の神々」の存在を感じていたのだろうね。
言霊の駆けぬけてゆく櫻かな 益弘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9
サクラ(桜)
バラ科モモ亜科スモモ属[1] (Prunus, Cerasus) の落葉樹の総称。

サクラの原産地はヒマラヤ近郊と考えられており、現在、ヨーロッパ・西シベリア・日本・中国・米国・カナダ[2]など、主に北半球の温帯に、広範囲に分布している[3][4]。

サクラは日本文化に馴染みの深い植物である(サクラ#日本人とサクラ)。また、日本において観賞用として植えられているサクラの多くはソメイヨシノという品種である。英語では桜の花のことをCherry blossomと呼ぶのが一般的であるが、日本文化の影響から、sakuraと呼ばれることも多くなってきている。

サクラの果実はサクランボまたはチェリーと呼ばれ、世界中で広く食用とされる。

日本人とサクラ

日本においてはサクラは、関心の対象として特別な地位を占める花である。
歴史
京都府京都市・仁和寺

桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった[要出典]。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」とよばれる木がある(あった)。これは桜の場合も多いが、「桜」と名がついていても桜以外の木の場合もある。

『万葉集』には色々な植物が登場するが、桜もその一つである。しかし、中国文化の影響が強かった奈良時代は和歌などで単に「花」といえば梅をさしていた。万葉集においては梅の歌118首に対し桜の歌は44首に過ぎなかった。その後平安時代に国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり、「花」とは桜を指すようになる。

古今和歌集仮名序にある王仁の歌とされる「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の「花」は梅であるが、平安時代の歌人である紀友則の歌「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」の「花」は桜である。嵯峨天皇は桜を愛し、花見を開いたとされており[16]、左近の桜は、元は梅であったとされるが桜が好きであった仁明天皇が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたとされている[17]。

歌人の中でも特に平安末期の西行法師が、「花」すなわち桜を愛したことは有名である。彼は吉野の桜を多く歌にしており、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名である。西行はこの歌に詠んだ通り、旧暦二月十六日に入寂したとされる。

豊臣秀吉は醍醐寺に700本の桜を植えさせ、慶長3年3月15日(1598年4月20日)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされる(醍醐の花見)。
葛飾北斎によるサクラと富士の絵

江戸時代には河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が植えられた[16]。また園芸品種の開発も大いに進み、さまざまな種類の花を見ることが出来るようになる。江戸末期までには300を超える品種が存在するようになった[14]。江戸末期に出現したソメイヨシノを始め、明治以降には加速度的に多くの場所に桜が植えられていった。

明治維新後に大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化の名の下に多くの庭園が取り潰されると同時に、底に植えられていた数多くの品種の桜が切り倒され燃やされた。これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの園芸品種の枝を採取し自宅の庭で育てた。これに目を付けた江北地区戸長(後に江北村村長)の清水謙吾が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作り、これを嚆矢として多くの園芸品種が小石川植物園などに保存される事になり、その命脈を保った。
日本人とサクラ - サクラ - Wikipedia
桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった[要出典]。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」とよばれる木がある(あった)。これは桜の場合も多いが、「桜」と名がついていても桜以外の木の場合もある。