わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬とおもえることもあるからです。


なぜなら時間とは、いきるということ、 そのものだからです。そして、人の命は心をすみかとしているからです。


灰色の男たちは人間の時間にたいして、ある計画をくわだてていました。大々的な、慎重に練り上げた計画です。・・・いっぽいっぽ、だれにも気づかれずに、日ごとにふかくくいこんで、人間の心に手をのばしていました。
時間節約こそ幸福への道、あるいは時間節約をしてこそ未来がある!あるいは君の生活をゆたかにするために 時間を節約しよう。



けれども 現実はこれとはまるっきり違いました。・・いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、つかうのもよけいです。けれども、ふきげんな くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしいめつきでした。・・・・余暇の時間でさえ、すこしのむだもなくつかわなくてはと考えました。ですから、その時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこもと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。
 だから、もう楽しいお祭りであれ、厳粛な祭典であれ、ほんとうのお祭りはできなくなりました。


仕事がたのしいかとか、仕事への愛情をもってはたらいているかなどということは、問題ではなくなりました。むしろそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間に、出来るだけたくさんの仕事をすることです。


 時間をけちけちすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをけちけちしているということには、だれひとりきがついていないようでした。自分たちの生活がひごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、ひごとにつめたくなっていることを誰一人認めようとはしませんでした。


けれどじかんとは、 生きるということ。そのものなのです。そして人の命は心をすみかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。


・・・・・・・
やがて花の雲はゆっくりと空をおり、花々は静止した世界に雪のように舞い降りました。
そしてまさしく雪のように、しずかにとけて消えました。本当の居場所にかえったのです。・・・にんげんのなかに。
  その瞬間に、時間はふたたびよみがえり、あらゆるものがまたうごきだしました。



それでも、なにかがまえとはちがっています。つまり、人間がだれもかれも、きゅうにたっぷりと時間があるようになったのです。
 大都会では長いこと見られなかった光景が繰広げられていました。
仕事に出かける人も、いまでは窓辺のうつくしい花に目をとめたり、小鳩にパンにくずをなげてやったりするゆとりがあります。お医者さんも患者のひとりひとりにゆっくり時間をさいています。労働者も・・・ゆったりと愛情をこめて働きます。みんなはなにをするにも、ひつようなだけ、そして好きなだけの時間をつかえます。いまではふたたび時間はたっぷりとあるようになったからです。



『モモ』より 
ミヒャエル・エンデ著/大島かおり訳   岩波書店 刊


自遊人あっちゃんのマクロビオティックな日々-110411_1529~01.jpg


昨日のベジフェス会場で感じたこと、モモを読んで感じたこと、すごくつながってる。
上記の抜粋は 何かに悩んだ時に、私がいつも読み返して感じる『モモ』のなかの文章の抜粋です。

安曇野のパーマカルチャー塾に通っていた時の心のここちよさ。身体のここちよさ。心や脳の充実感。

モモの世界が確かに感じられた一年間。
今、もう一度初心に帰って、無の状態にもどって、考える時。


こういうと、語弊があるかもしれないが、

日本がどうなっているかでもなく、世界がどうなのかでもなく、


個を生きること。
私を生きること。

それが 世界へ、宇宙へと繋がっていく。



愛と平和と自由。


いつも心に灯を・・・・・




 今こそ、日本経済をたてなおすために・・・・といってる人もいるんだけど

何か 違ってるような気がするんだな。

それが 今の私のおもい。ただのひとりごとなんだけどね。


では おでかけしてきます。