【 ジジの 一言 : 尊敬できる師僧がいて わたしは しあわせもの 】 | ジジの一言

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みなさん こんにちは【 ジジの 一言 】です。
少しの間だけ お仕事の手を休めて ご覧になってくださいね。

先日 テレビで 国中を 震撼とさせた 死刑囚たちを 生み出した
宗教教団の 一派が 信者を増やしつつあると 放映されました。

それを みて いろんな 意見を耳にしました。

「 えっ まだ 執行されて いないの ?
逮捕されてから 10年も 20年も なるでしょう ?」

「 逮捕された 年月日は 把握していないけれど
あんな教団に 入信した 信者が 可愛そうだね 」

そして…

「 法主は しあわせものだね。
あんなに 素晴らしい 師僧に 教えていただけて。
わたしも 心から 尊敬しているよ 」



師僧は 今年で 87歳になる。

いまだに 矍鑠として 宗団のため あるいは 檀信徒のために
弘法大師 空海の教えを広められて いますが
わたしにとって 大変 怖い存在でした 。

お経の 練習から 威儀といって 立ち居振る舞い
説法 習字の練習 …とにかく 厳しかった。

「 厳しいかも わからないが 可愛いから 厳しくするのだ。

君の お母ちゃんが 死ぬ前に わたしの手にすがりついて
どうか この子を 一人前にしてくださいと 約束をしたからね。

君には 【教相】は勿論のこと 特に 【事相】には
口やかましく 教えたつもりだ 」

教相とは お釈迦さんの 教えを 経典をもとに 紐解き
大衆に 分かりやすく 解説して それを 日常生活に 実践して貰う事です。

教相とは 護摩を焚いたり 滝行をしたり お四国八十八ヶ所を 巡礼したり
自分の 身体を使って 行をすることで 空海は この 両方が出来て
はじめて 僧侶であると 教えました。

実生活に おいて 頭ばかりで 考えても駄目だ。
如何なる 立居振舞をすれば みなさんに 喜んでいただけるか
それを 常に考え 実行しなさいと 諭すのです。


「 お葬式で 会葬者一同 泣きの涙のときに
わたしは お経を唱えるのが 得意なんだと 朗々と
唱える僧侶がいる。

同事といって その人の 気持ちになって
声は 小さく 早口で、しかも 悲しく読まなくてはいけません 」

「 ご法事のときに お経を 読み終え、その後の お説教をするために
座布団を クルリと回り、正々堂々と 仏壇に お尻をむけて
話し出す人がいる。

一度 座布団から降りて ご先祖さんに 失礼のない座坪をとって
座り直さねければ ならない 」

「 お墓にいって お線香を立てます。

施主は 1番に 線香立ての 真ん中に ドンと 立てます。

しかし これは 間違いで、左の 1番 最前列に 立てるのです。

すると 次の 方は 最前列の 施主さんの 真横に 立てることができます。
最前列が 終わったら 次の列の 左から 立てていきます。

これは お釈迦さんが 教えたことでも 弘法大師の 教えでもありません。

自然の 摂理ですね 」



よく 考えてみれば この【 事相 】の 行は
わたしたちの 毎日の生活のなかで お坊さんだけが 行するのではない。

1人 1人が 気をつけて 日暮らしをしなければ ならないことばかり
口やかましく ( 失礼 ) お教えを頂いて いたのですね。

『 本当に わたしは 素晴らしい師僧等めぐり逢えて
果報者だと 思っています 』



こんな 道元禅師の お諭しの言葉が あります。

【 正師を 得ざれば 学ばざるにしかず 】

自分自身の 人生において
正しい先生に お出会いすることができなかったら
むしろ 学ばない方が 良い。

師と 学人の関係を 大工と木に 喩えて 教えています。

四方無節とよばれるるような 材料が どんなに立派なものでも
肝心の大工さんが それを使いこなせる 腕が無かったら
立派な お家は 建てることができない。

例え 節くれだって 曲がっている材料でも 大工さんの腕が良かったら
曲がりを 生かし 節をいかせて 見事な お家が出来上がるであろう。

だから 貪欲で 怒りっぽく クドクドと愚痴ばかり言い
私利私欲にはしるような 師匠からは 寧ろ 学ばない方が いい。



最後に お釈迦さんの 教えを 紹介して筆を 置きます。

【 茅を つかみそこぬれば その手を 傷つくるがごとく
あやまれる求道は 破滅にみちびく 】
合掌