教育をつくりかえる道すじ 教育評価2 | 「しょう」のブログ(2)

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 「生活指導」という言葉は戦前、綴方教師の峰地光重がはじめて用いたといわれますが、「生活そのもの(それを綴り意識すること)が子どもたちを成長させる」というイメージです。当面、「生活指導」や「生活綴方」を中心に書いていきたいと思います。

2、学校評価と教職員評価 ~その現状と問題点~

現在の「学校評価」や「教職員評価」が強調されるようになったのはいつからだろうか。

田中耕治(『教育評価』)によれば、第16期中央教育審議会答申(1998年)以来、学校の経営責任の明確化、各学校の教育目標を効果的に達成することを目指して、学校評価が意識的に取り組まれるようになってきた。学校評議員制度もこの学校評価を支えることを一つの目的として導入されたものである。

 「教育改革国民会議」(2000年)で「教師の意欲や努力が報われ評価される体制」の構築が提案される一方、「指導力不足教員」の問題、他方では「教員の専門力向上」の問題をにらみながら、人事考課、勤務評定としての「教育評価」の取り組みが強まっている。⑤

 

 ここでは概略、次のような点が指摘される。

・学校評価において、自己評価と外部評価をどのように関係づけるのか。

・教師の教育専門家としての成長と、処遇への反映の関係をどのように考えるのか。

・競争的な報奨制度が共同的な教育活動を阻害することになったアメリカでの失敗例を念頭において、教師の努力や意欲が報われ評価される体制をどう構築していくのか。

 田中耕治の記述はいくつかの問いで終わっているが、彼が「教育評価」と鍵括弧つきで表現した上記の取り組みの中には、本来の教育評価を捻じ曲げる要素が数多く入り込んでいるのではないだろうか。「学校評価」・「教職員評価」導入の意図が、「教育評価」を前進させるという純粋な観点だけでないところに問題がある。いくつかの側面から整理しておこう。

1)「学校評価」の主体は本来誰か

冒頭の引用文で中内(『教室をひらく』)も記述しているように、教育評価の筋で考えれば教職員こそが評価の主体である。「教科の学習や特別活動の成果」、「学習や活動によって生じた変化(あるいは変化が生じていないように見える理由)」を適切に評価し、「教育を(学校を)よりよいものにつくり変えていく力」こそが、教職員の専門性だと考えられる。このような意味における「教育の成果や教育実践そのものを評価していく教職員の力」を高めることなしに、豊かな教育は成り立たないであろう。

あくまでこれが基本であり、教職員自身による「教育評価」を補うために「利害関係者」(具体的には同僚、保護者、地域住民、教育行政機関、第三者機関)の評価、そして学習の主体である子どもたちの評価を取り入れるのである。例えば研究授業や参観授業で同僚・保護者が感想・意見を述べる等、教授・学習過程に関係する人たちが評価に参加することは、「教室に閉ざされた評価」を開いていくことになる。そして同時に、教職員は出された意見を受け止めつつ検討することで「教育評価」の力を高めていくことができるであろう。

2)教育評価と評定の区別 

 評価については、教育評価(エヴァリエーション)と評定(ヴァリエーション)を区別することが必要であるが、現状においてはきちんと区別されていない。現在の学校評価、教職員評価は純粋に「教育評価」の観点から拡大しているわけでないところに問題がある。「教育評価」と言うよりも、「評定」が強調される傾向があまりに強いのである。(例えば、教職員をABCにランクづけする等。)

確かに、現行の「学校評価」の中には教育評価的な性格が取り入れられている部分もあり、それをも含めて全面否定することは問題があるだろう。しかし、それ以上に「民間企業の目標管理システム」をモデルにしていると見える側面が強い。後者のモデルは目に見える数値目標を重視するが、それにとらわれることで「教育の目標設定」そのものをゆがめてしまう可能性は大きい。

 

さらに、数値目標が一人歩きしていくことは教育の市場化・商品化を加速させていくと考えられるが、米国において完全に失敗していった「教育改革の現状・結果」⑥から、しっかりと学ぶ必要があるのではないか。

また、ランクづけ(さらには賃金格差の導入)が「教職員集団で行き届いた教育を創造する」上で大きなマイナスになることについては、多くの論者が指摘するとおりであろう。

3)評価に関わる「利害関係者の利害」とは?

確かに、学校教育において「利害関係者」が「教育評価」に適切な形で参加することは有意義である。適切な形での参加というのは、教職員による「子どもたちの学びの現状の評価」を色々な角度からの意見によって補ったり修正していくことである。その結果、どの学校においても指導や教育条件が行き届いたものになるよう関わっていくことである。

 

しかしながら、「参加」の問題が「俺にも文句言わせろ」と言う形で「評定(例えば標準テストの平均点)を上げるための圧力」になってしまうとすれば、結局、子どもたちを際限のない「排他的競争」に駆り立てるだけで、権利としての行き届いた教育保障に逆行するものではないか。

確かに教育目標を再検討していくことは大切である。しかし、例えば学習指導要領の内容が、政治家や経済学者やマスコミによる「学力低下キャンペーン」によって右往左往するようなことには大きな問題がある。あくまで、目標の再検討は、現場における「教育評価」を土台にしてなされるべきであろう。(※)


 

また、教職員をランクづけし「最低ランクの○○はやめさせろ」、「担任替えろ」といった要求を出すことが、しっかりとした「教育評価」をもとに、落ち着いて指導内容の改善や教育条件の整備を進めていく上でマイナスに働くことは容易に想像できる。

橋下維新の会による「教育基本条例」は、そのような性急な要求を公的機関が押し出すことで「米国の失敗」を現実のものにする危険性が大である。

 

〔註〕

⑤田中耕治『教育評価』岩波書店 87頁

⑥堤 未果『社会の真実の見つけかた』(岩波ジュニア新書 2011) によれば、米国における「教育の市場化・商品化」の現状・結果は以下のようなものである。(概略)

アメリカでは2002年春、ブッシュ政権によって市場原理中心の教育政策である「落ちこぼれゼロ法」が施行された。その結果、全国一斉学力テストの実施が義務づけられるとともに、学力ノルマ基準を満たせず「落第」とされた場合、責任と非難は現場の教師一人ひとりに集中し、減給や解雇が行なわれる。

公立学校も、国からの予算カット、廃校、民営化に追い込まれる。

さらに、公立学校の教員の多くが、国から要求される子どもたちの学力ノルマ達成と生活に余裕を失った保護者からの大量の無理難題要求に追い詰められていく。その結果、バーンアウト(燃え尽き)していく事態が急速に進行。

2014年までに全米の公立高校の九割近くが「落第」になる見通しで、この政策は、教育現場を極度に荒廃させただけに終わっている。

なお、米国で失敗した「落ちこぼれゼロ法」と「教育基本条例」が酷似していることを指摘した番組をとりあげたブログ記事はこちら

 

(※)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。

                          続く

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