弥生時代の銅鐸に西王母が描かれて居る事から、

前漢後期以降に西王母と七夕の説話が徐々に

伝わったものと思われます。

伝わった経路は、日本に残る七夕・羽衣・竜女説話の

伝承経路からみて、「日本人は何処から来たのか?」と

言う命題と同じような経路であろうと推測しますが、

遣唐使などにより伝えられた可能性もあります。

日本で使われた七夕の文字は「たな」は棚、

「はた」は機です。


7月7日の夜に水上に棚作りをして乙女が機を織る

行事があった様です。

その乙女を棚機女(タナバタツメ)または乙棚機と云った

そうで、7月7日の夕べの行事であったために「たなばた」

に「七夕」の字を当てたと言われております。

 宮中で七夕の行事がはじめられたよりも、少し前から

七夕の歌が歌われておりまして、万葉集では(2029)で

初めて、七夕(なぬかのよ)の歌が読まれている

ようです。


  天漢(あまのがわ)梶音聞(かじおときこゆ)孫星

 (ひこぼしと)与織女(たなばたつめと)今夕相霜

 (こよいあふらしも) 


 万葉集でたなばたは他に「織女」と書かれております

が、新古今和歌集では「七夕」となっています。

このことから「七夕」の字は平安時代に当てられたもので

あることがわかります。

(万葉集は「天の川の使い方」で初期と後期の

作に分けることができるようです。)

  古い時代の七夕は、祖先の霊を祀る盆に先立つ

 物忌みのための禊(みそぎ)の行事であったようです。

それは水辺の機屋に神の嫁となる処女が神を祭って

一夜を過ごして、翌日七夕送りをして穢れを神に託して

持ちさってもらう祓(はら)えの行事であったと言います。

古事記によりますと、天孫ニニギノミコトが笠沙の浜を

歩いていたとき、海辺に八尋殿を建てて中で機を織る

美しい機織女を見つけました。

衣は魂を包むものとして神聖なもので、霊魂のシンボル

とされていました。

また、畑作の収穫祭としてとして七夕を迎えること古来の

信仰でもありました。

それは麦を中心として粟・稗・芋・豆を主食としていた

時代で、米中心の稲作より古く、日本固有の信仰として

存在していました。

麦の実りを祝い、キュウリやナスなどの成熟を神に

感謝したのです。

この祭りのとき、人々は神野乗り物としてキュウリの馬、

ナスの牛を七夕に供えました。

それがまた盆行事として習合して盆飾りとなり、

祖先の乗るキュウリの馬とナスの牛に引き継がれて

います。

日本固有の畑作の収穫祭と盆迎えの祓えの信仰が

中国の星の伝説や乞巧奠の風俗とまじり合って、

現在のような七夕が成立したものと考えられております

「ねぶた祭り」も七夕の変形であると云われている

ようです。