私事で恐縮ですが、去る平成26年6月8日、父が永眠しました。死因は敗血症、65歳のどちらかと言えば短い人生でした。通勤中の車内で昏睡し自損事故、救急搬送され、そのまま意識が戻ることなく、自分を蝕む病名すら知ることなく、二日後にこの世を去りました。炊飯器には父が予約炊飯していたご飯が炊き上がってました。本人にとっても寝耳に水の出来事であったに違いありません。

 父は経営者として多くを犠牲にして仕事に生き、その苦労が報われないまま突然の病に倒れました。確かに楽しいこと、それなりの成果はあったはずです。しかし、その喜楽はかりそめのものであり、それを圧倒的に上回る辛苦がありました。

 果たして父の人生は良い人生だったのか。少なくとも私の目から見てそれはいわゆる「幸せ」から程遠いものでした。しかし、それは最も人生として本質的であったと思います。つまり人生とは苦しいもの。

 そもそも人生の幸、不幸を論じること自体が意味のないことなのかもしれません。人は地球上の単なる一生物であり、私達一人一人は遺伝子を次世代につなげる、それがほとんど唯一の役割です。村上春樹はそのことを著書「1Q84」の中で、私達は遺伝子にとっての乗り物でしかないと言っています。ごくごく稀に何百年、何千年と後世に語り継がれる偉人が出て、その功績が多くの人の生き方に影響を与え続けることもありますが、私達のほとんどは死んで100年も経てば誰も知る人がいなくなります。努力してそれなりの結果を出した人も、犬死にした人も同じです。すぐに乗り捨てられる乗り物なので、その一台一台に特別な思いや意味はなく、乗り物自体が乗り回されて満足だったかなんて問いはナンセンスです。

 それなのに人間には自分の人生の意味を考える習性が備わっています。しかし、その習性があることで、かえって希望と現実の間で自分の無力さを痛感し、苦しみの淵に追い詰められます。若者は自分の居場所を見つけられず、老人は孤独の闇に身を埋める。中には苦しみに耐えきれず自ら命を断つ人もいます。

 何故、単なる乗り物に過ぎない私たちにそんな習性があるのでしょうか。そればかりではありません。遺伝子をつなぐための生殖機能により、性の疼きを堪えきれず自暴自棄に走る男性がいたり、多くの女性は閉経時に自己喪失感に苛まされます。抗えない宿命と遺伝子の気まぐれにただ翻弄され、無駄に苦しむのが人間の本質なのでしょうか。

 私はそれが人間の本質だと思います。さらに言えば、悪癖をほとんど改めることができず、同じ過ちを繰り返す破滅的存在でもあります。それを認めるのは私としても残酷な判断でした。人生経験を積むに従い、これまで霧に包まれておぼろげだった世界が徐々に輪郭を現してくる。希望的に解釈する余地はない訳ではありませんが、残念ながら、もはや、その拒絶したい現実を受け入れざるをえないでしょう。

 父の人生を思う程に、その考えについて私は確信を増していきます。そして、それと同時に生きることへの無力感に襲われます。これから自分や親しい人の身に降りかかる様々なことについて究極的無気力で受け止めるしかないのだろうかと。
(続く)