これは、今月10日まで東北学院大学博物館企画展「侍が見た東アジア図」にて公開されていた、江戸時代の医師・細矢玄俊が原図を模写して成ったという、4メートルを超える巨大な東アジア図のことである。


初公開! 侍が見た東アジア図 『大明地理之図』 東北学院大学博物館 平成26年度春季企画展【5/17~7/10】日まで 2014年5月16日東北学院大学配信


江戸初期の「大明地理之図」展示 東アジア情勢、克明に 東北学院大博物館 2014年6月16日河北新報配信



本地図の精細な画像については、この地図が個人所有のものということもあり、ここに提示することはできない。また現在まで展覧会等に出展されたことはなく、今回が初公開であり、その後は東洋文庫に寄贈される。


さて、同大学の小沼孝博氏(中央アジア近世史・清朝史)のご教示ご説明にそのまま依拠し、この細谷家伝来「大明地理之図」の特徴を、以下に備忘録として記しておくことにする。


・原図は、16世紀後半から17世紀前半に明で作成され(『禹貢』・『(大明)一統志』・『図書編』等を参考にして成った)、それが江戸時代前期に日本へ招来されたと考えられる。
・江戸時代に複数の模写が作成されたが、本地図はその精巧さと保存状態で群を抜いている。
・本地図は、山形城下で代々医業を営む家系に産まれた細矢玄俊(1786-1849)が、文化11(1811)年に滞在中の京都で模写したもので、現在に至るまで山形の細矢(現・細谷)家に伝来。
・四幅の掛け軸に仕立てられおり、一幅あたりの大きさはタテ約 345cm×ヨコ約90cm。
・地域ごとに色分けされており、主要な地域や都市の名前が記される。
・また春秋戦時代の古地名、古代の帝王や文人にまつわる寺廟、景勝地が細かく描き込まれ、漢文による説明が随所に書き加えられている。



【第一図】
・朝鮮・日本・琉球など東アジア海域地域が描かれる。
・海上に浮かぶ帆船は、和船(日本船)と唐船(中国船)とで形態と乗船者の様子が異なる。
・九州と寧波を結ぶ線(勘合貿易の主要ルート)の上には、髷を結った男性が乗る和船が描かれている。
・琉球国では中山王城(首里城)、中山牌楼(守礼門)、そして明朝皇帝の使者が滞在する天使館(地図上では天便館と誤記)などが描かれる。
・本地図の琉球図は、明・鄭若曾(1503-1570)著 『琉球図説』所載の「琉球国図」が原図と推定される。


【第二図】
・国都の北京・副都の南京など、明の中心地域が描かれる。
・北京の北には万里の長城が東西に延び、南には盧溝橋が見える。
・地図中央部には、黄河と長江が流れる。
・一番下の福建の東には、澎湖嶌(澎湖諸島)と、東寧と記された高宋嶌(台湾本島)が浮かぶ。
・その一方、小琉球(台湾に対する中国での呼称)が別途描かれており、この地図では台湾が二つ存在している。


【第三図】
・最上部の沙漠の上には、中国諸王朝と遊牧民との対立の歴史が簡明に述べられる。
・黄河中流域の中原地域には古都長安と洛陽が見える。
・中央部には、明朝第12代・嘉靖帝の出身地である興都(現・湖北省鍾祥市)がある。即位後の嘉靖10(1531)年に興都と命名された。原図作成年代の推定にあたって貴重な情報。
・その興都の周辺には三国志関連の情報が見られる。諸葛亮孔明の庵「諸葛書院」や「三国必争の地」荊州など。
・洞庭湖も、巨大な湖として描かれている。


【第四図】
・撒馬児罕(サマルカンド)の説明書きには、ティムールがここを統治していたと記載。
・吐蕃の地には、黄河源流である星宿海が記される。
・海南島と安南に挟まれたトンキン湾には、水上生活者の蛋民による素潜りでの真珠採集方法が説明されている。
・そこでは、運悪く「悪魚」に遭遇して襲われると、その餌食となって海面は血で真っ赤に染る、という凄惨な光景も描写されている。
・その原文は、「合浦県東海中産珠、蛋人採之極難。毎以長縄繋腰、携竹籃入水、拾蚌置籃内、則振縄令舟人汲取之。不幸遇悪魚、一線之血浮于水面、則已葬魚腹○」。※最後の「○」はかすれて判読不能。


地図、ことに前近代の地図が興味深いのは、そこに記された地名の数々のみならず、大きく言えば地図作成に関わった人間の世界認識といったところまでもが視覚的にうかがえることにあろうが、この「大明地理之図」も、その例に漏れないように思う。また先に述べたように現状では、本地図の精細な部分を確認し、それを堪能することが残念ながら果たせないが、東洋文庫という然るべき研究機関の所蔵となるとの由、そこで学問的検証が為され、その成果等が将来的に公刊普及されることを期待したい。