もう7年前もに刊行された宮紀子『モンゴル帝国が生んだ世界図』(日本経済新聞出版社)のページを再度めくっていると、かねてより気になっていた一節に再びまみえることになった。以下の通りである(pp.90-92)。


また、この至元十八年正月の授時暦の頒布は、おそらく本来はクビライからチンキムへの政権の委譲を天下に示す意味をもっていた。『元史』の本紀は、至元十六年十月以降、皇太子のチンキムが国政を預かり、尚書省以外の中書省、枢密院、御史台といった官庁の案件は、まずチンキムに啓上したあとでクビライに上奏することになったと記す。いっぽう、『集史』をはじめとするペルシア語資料の記述では、クビライ、四男のノムガンとチンキムの間に継承争いがあり、チンキムが死ぬ前の三年間(至元十八―二十一年を指すだろう。ただし、公式記録ではチンキムは至元二十二年の暮れに死亡)、なんとじっさいにカアンの位についていた、という。


漢文資料も注意してよめば、至元十二年末頃からすでにふたりの間がおかしくなりはじめていること、それぞれの派閥の綱引き状態を反映してか官庁の統廃合が繰り返されていること、至元十八年から二十二年にかけての記述がきわめて曖昧で、『元史』の本紀がほとんどすべてを依拠している『世祖実録』編纂の段階でそうとう削除、手が加えられ、ひどいときには記事がまるごと別の年月のところに移動させられていること、ほかの資料も同様であることに気がつく。関連の碑石も打ち壊された可能性が高い。「混一疆理歴代国都之図」と同様、高麗、朝鮮王朝を経てこんにち日本のみに伝来する大元ウルス朝廷発令の詔や上奏文をあつめた『聖元名賢播芳続集』には、クビライが至元二十一年に発令した詔がのこっており、そのなかで「チンキムを頭にいただく中書省以下の官庁の高官、役人たちの反逆の罪を不問に処し、反省して新たに踏み出す道を開いてやるぞ」といっていることは、有力な傍証となる。


そして、クビライの復権を誇示するためか、至元二十三年にやたらに至元十年以前の政策の繰り返しがなされる。じっさいにはチンキムが主導、準備していたことがらが、みなクビライの記念事業として公開される。サルバン、許国禎をリーダーに、全国諸路の医学教授を集めて進められていた薬学書『大元本草』の増訂もそのひとつである。『授時暦』についても、至元二十年にチンキムの命令で、李謙、斉履謙等太史院のスタッフの面々が『暦議』以下、補足書、注釈書を撰していたのだが、完成は二十三年、『暦経』『暦式』ほか全二十一巻としてクビライに献上されるのである。


※上記文中における太字下線は引用者による。




ええっ(゚Д゚;)。


チンキムがカアンに

(; ・`д・´)。


ところで、この本を含めて2冊が既刊となっている「地図は語る」シリーズの続巻は、いったい何時になったら刊行されるのであろうか@(・●・)@。