H-013 奴隷半身像
H-013 奴隷半身像 H.98×W.61×D.39cm (1513~15年頃 ミケランジェロ作 ルーブル美術館収蔵)
最近、石膏像ブログというよりは、すっかり”ルネッサンス”ストーリーと化してしまっていますが、皆様ついて来ていただけていますでしょうか・・・? 私自身も、ここに書いていることをぜ~んぶ暗記しているようなことはないんです。いろいろと本を読んで理解した部分を、石膏像との関係の中でまとめているという感じですので、どうぞお気楽にお付き合いください。。。
1504年にフィレンツェのためにダヴィデ像を完成させたミケランジェロは、市政庁広間のための大壁画にとりかかりましたが、ほどなくしてローマ教皇から招聘されたため、この壁画を未完のまま残してローマへと向かいました。
時の教皇ユリウス二世(1503~13年在位)は、非常に政治的手腕にすぐれた教皇で、15世紀を通じて回復しつつあったローマ教皇の影響力をより大きく安定したものにした人物です。
ラファエル作 ユリウス二世(本名:ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ)
この方は、経歴を読んでいるとそれほど恵まれた出自ではなかったものの、叔父にあたるシクトゥス4世(あのシスティーナ礼拝堂を建設した人物 1480年代完成)が教皇に選出されたことと、自分自身の抜群の政治的バランス感覚で最高の地位にまで上りつめた人物です。
Wikiで教皇になるまでの経緯を読んでると、ごちゃごちゃと本当に大変そう。。フランスと、ヴェネチアと、神聖ローマ帝国と、ナポリ王国と、イギリスのヘンリー8世と、ヨーロッパ中の勢力がイタリア半島にひしめきあって覇権を争っている中で、”教皇”・”教皇領”という存在をいかにして安泰なものにするかに腐心した人生でした。
そういった”政治的”な面と同時に、ユリウス二世は芸術を保護した教皇として有名です。ラファエル・ブラマンテ・ミケランジェロといった面々は、ユリウス二世によってローマに招かれて、その活動の場を与えられました。
さて、このユリウス二世はミケランジェロに二つの巨大プロジェクトを依頼します。
それが、”ユリウス二世霊廟”と、”システィーナ礼拝堂の天井画”です。
最初にミケランジェロがローマに呼ばれたのは、”ユリウス二世霊廟”の制作のためでした。1505年に依頼された当初の計画では、その霊廟は実に等身大以上のサイズの彫像を40体以上も配した壮大なものでした。
ミケランジェロにとっては、その芸術の能力を最大限に発揮できり絶好の機会を与えられたため、大いに感激し、自ら石切り場にこもって、一年近くの歳月を費やして大理石を選定しローマへ運んだそうです。
ところが、ローマへ戻りいざ制作へという1508年、ユリウス二世はシスティーナ礼拝堂の天井画を優先して制作するよう命令します。彫刻家であることを自認していたミケランジェロはこれを固辞しますが、教皇からの強力な要請に屈する形であの天井画に立ち向かうことになりました(ミケランジェロは一時ローマから逃亡するが、すぐに連れ戻されてしまう)。
霊廟建設が中断され、天井画に実に4年の歳月をミケランジェロが費やすことになった経緯にはいろいろな話があって、ミケランジェロの才能に嫉妬したブラマンテが教皇に悪いうわさを吹き込んだことが一因ともいわれています。
ともあれ、ほとんど独力で(ミケランジェロは”工房”単位での作業を極端に嫌っており、最低限の助手を使うことしかしなかった)、約800平方メートル(テニスコート三面以上)の広さに約300人の人物を描きこんだ大作は、1512年に完成しました。
これで彫刻作品としての”ユリウス二世霊廟”の制作に戻れるかと思われた1513年に、肝心のユリウス二世は逝去し、新しい教皇にメジチ家出身のレオ10世が即位します。
ユリウス二世の遺族であるデラ・ローヴェレ家と、新教皇を送り込んだメジチ家とは敵対関係だったため、またもユリウス二世霊廟の制作は後回しにされることになり、ミケランジェロはフィレンツェへと戻りメジチ家関係の制作依頼に応えねばならなくなりました。
そんな紆余曲折を経て、結局1545年にユリウス二世霊廟は完成します。
1508~1545年 ミケランジェロ作 ユリウス二世霊廟 ローマ サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会
最初の計画では、サン・ピエトロ大聖堂内に、40体以上の彫像に取り囲まれた、幅7メートル、奥行き11メートル、高さ8メートルの独立した構築物を作る予定でした。
ミケランジェロ自身による、初期計画の図案
15世紀を通じて、フィレンツェ・ヴェネツィアなどでは”壁付墓碑(教会の壁面を利用して、そこにくっついた形で墓碑を構築したもの)”が一般的だったことを考えると、この霊廟の計画はスケールだけでなく、そのスタイルも非常に野心的なものでした。
その構成は、最下層は人間界に、中間層は神の恩寵を受けた預言者と聖人たちに、上層部は最後の審判に於いて下の二つの層を超越した者達にそれぞれ捧げられていました。
”奴隷”らしき彫刻群が配置された最下層部の図案
しかし、度重なる計画の変更によって、その規模は大幅に縮小され、最終的には”壁付墓碑”のスタイルに落ち着き、三層構造だった計画は二層のみの構築物として実現されました。
それで、それで、やっとこさ本日の石膏像の登場です!
この壮大なユリウス二世霊廟の計画のために制作され、そこから”はじき出されてしまった”のが本日の石膏像の「瀕死の奴隷」という彫刻作品なのです。
消滅してしまった最下層部分に設置されるはずだったのが、全部で6体制作された奴隷像だったのです。
最下層は、人間世界を象徴しており、この奴隷像は”魂が肉体に囚われの身になっている”ことを表現しているとされています。
1513~15年制作 ミケランジェロ作 「瀕死の奴隷」 パリ・ルーブル美術館
細かい経緯はよく分からないのですが、最下層が省略されてしまったことにともなって、この奴隷像ともう一体の奴隷像はロベルト・ストロッツィという人物に贈られ、さらにフランス国王に献上された結果、現在ではルーブルのコレクションとなっています。
今日取り上げている石膏像は、この作品の原作サイズの腰の部分くらいまでの半身像です。
実際の人間のサイズよりは3割り増しといった印象ですので、半身でもかなりの大きさがあります。
ちなみに、この奴隷像は美術大学の入学試験問題としてもすっかり定番となりました。
昨年の東京芸大の彫刻課一次試験にも出題されています(この10年間で、たぶん3回目くらいじゃないでしょうか・・。ミケランジェロの比率は高いですね~)。
次回も、この奴隷像のお話が続きます。。。
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