H-011 ラオコーン半身像 | きょうの石膏像 

H-011 ラオコーン半身像


きょうの石膏像     by Gee-H-011
H-011 ラオコーン半身像     H.85×W.65×D.35cm (ヴァチカン美術館収蔵)




あっれ~? ルネッサンスじゃなかったの~??


ギリシャ・ローマ彫刻に移動したの??と思われるでしょうが、まだまだルネッサンス、、そしてミケランジェロについてのお話が続いております。



美術大学の入学試験問題としては定番となっている、ギリシャ彫刻のラオコーンですが、実はルネッサンスとも深いかかわりがあるのです。。。


File:Gruppo del laocoonte, 01.JPG

ヴァチカン美術館収蔵 「ラオコーン」 紀元前150年頃制作のブロンズ像のローマンコピー





ところで、これまでダンテなんかの話から始まって、ず~~っとルネッサンスについて書いてきていますが、ルンッサンスってなんでフィレンツェなの??と思いませんか?


大金持ちのメジチ家がフィレンツェを支配していたから・・・?高校の世界史の授業から得られる知識としては、そんなところでしょうか。。。


メジチ家が金融と貿易によって莫大な富を蓄え、力を持つようになったからというのは確かに大きな要因です。そしてその富を有効に活用するだけの審美眼と、ビジョンをフィレンツェの支配者層が持っていたことも重要です。




それではフィレンツェだけでルネッサンスが発生したのか?というと、これはそんなことはなく、イタリアの各都市でテイストの違いこそあれ、時を同じくしてルネッサンスと呼ぶべき絵画・彫刻・建築の新しい表現方法が生まれていました。


最初のルネッサンスの萌芽はフィレンツェからでしたが、ほどなくしてそのフィレンツェで腕を磨いた芸術家達がイタリア各地を移動したことで、そのエッセンスは他の都市国家にも波及してゆきました。。



ミラノではスフォルツァ家の隆盛の下で、ナポリではアラゴン家、マントヴァではゴンザーカ家、フェラーラではエステ家、そしてウルビーノではモンテフェルトロ家・・・・・・・。15世紀には、イタリア各地の都市で、その支配者の庇護の下にルネッサンス文化が花開いていたのです。



では、では。。。ローマは??


File:Colosseum-2003-07-09.jpg


そーなんですよ。ここが今回私がいろんなルンッサンス関係の本をパラパラと読んでゆく中で、ポンっとひざをうったところなんです。



いったい、古代ローマ繁栄の地であったローマはその頃どんな状況だったのか??



古代ローマが、395年に東西に分裂した後のローマは基本的には”打ち捨てられた都市”でした。


西ローマ帝国が首都をラヴェンナに置いたため、政治的重要性が大きく低下したことに加えて、5世紀以降は西ゴート族、東ゴート族などが次々と侵入し、略奪を受けることになり、荒廃の一途をたどります。


ローマ教皇は存在し続けたわけですが、ローマという都市は中世を通じてあまり政治的に重要な場所ではありませんでした。




8世紀に入ってフランク王国のピピン3世(小ピピン)が、教皇に寄進するという形で教皇領を保障したことにより徐々にローマ教皇の勢力は復活してゆくわけですが、1309年に起きた教皇の”アヴィニヨン捕囚”などもあり、ローマという都市自体が光を取り戻すにはまだ長い時間が必要でした。


南仏アヴィニヨンの教皇庁・・・・・(アヴィニヨンは南仏観光の入り口の町。夏の演劇祭が有名です。)



フランス王の勢力によって、カトリック教会の総本山が南仏のアヴィニヨンに移されてしまったため、ローマはさらに荒廃し、1377年にこのアヴィニヨン捕囚が終了すると、今度はローマとアヴィニヨンの両方に教皇が存在するという事態に発展し、シスマ(教会大分裂)となってしまいました(1417年のコンスタンツ公会議で収束)。




こんな1000年近くにわたる混乱を経験してしまったため、15世紀初頭のローマというのは、華々しい芸術運動が生まれていたフィレンツェとは対照的な、すさんだ状況だったのです。


しかし、シスマの収束によって安定期に入ったローマは、15世紀を通して徐々に整備が進み、15世紀後半に現れた三教皇が行った都市整備計画によって盛期ルネッサンスの花開く舞台となっていきました。




さて、延々と世界史の授業のようなことを書いてきましたが、何が言いたいのか???というと・・・


ここで、冒頭のラオコーン登場!なわけです。


File:Laocoon group closeup 3.jpg

石膏像のクオリティ云々をおっしゃる先生方!!この髭をご覧ください!石膏像は石膏像なんです。所詮・・・。

この通りそっくりに複製するんなら、値段は10倍だね。。。髭は一本一本、ぜんぶ別部品で作って後付けしなきゃ・・・30本くらい??。




15世紀の後半から、ルネッサンスがローマにももたらされ、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエルといった名だたるルネッサンスの担い手達が相次いでローマに到着し、活動を開始していた16世紀初頭・・・このラオコーン像がローマのブドウ畑からゴロッと発見されたのです!!



1506年1月14日に、ローマ郊外のブドウ畑でこのラオコーン像が発見されると、たいへんな反響が巻き起こりました。


当時の法王ユリウス二世から”古代遺物監督官”に任命されていたミケランジェロは、まっさきにこの発掘現場を訪れ、ラオコーンに感激したといいます。



そもそも、ルネッサンスという芸術運動は、”人文主義”というものを掲げて人間そのものを見つめなおそうという運動であり(簡単に書くとですが・・・)、そのよりどころは、古典・古代・・・ギリシャ・ローマの精神にあったわけです。


もちろん、この時代にもローマの遺跡はたくさん残っていたのでしょうが、新しく発見されたギリシャ彫刻(ラオコーン像は紀元前150年頃に制作されたブロンズ像がオリジナルとされており、この発見された大理石像はローマ時代の模刻)の劇的なフォルムは、当時の為政者、芸術家達に大変な衝撃を与えたのです。


ラオコーン像は、”尊敬すべき古代”を体現するものとして、多くの権力者達の羨望の的となりましたが、最終的には、当時の教皇ユリウス2世によって購入され、ヴァティカン宮殿内のヴェルヴェデーレの庭に設置されました。


ラファエロ作 ユリウス2世



このラオコーン像の発見によって、ローマという場所が古典・古代を引き継ぐ”正当”な土地であるということが改めて認識されることになりました。





ラオコーン、そのものについても軽く触れておきましょう。



ラオコーンというのは、ギリシャ神話に登場するトロイ戦争の登場人物で、トロイ側の神官です。


ラオコーンは、対峙していたギリシャ勢が用意した”木馬”をトロイ城壁内に招き入れることに反対したのですが、その行為がギリシャ方に味方していた女神アテナの怒りをかってしまい、アテナの指示で海蛇がラオコーンを襲い、二人の子供もろとも殺されてしまいます。


その苦痛の姿を切り取ったのがこのラオコーン像なわけです。


ファイル:Laocoonphoto.jpg

1950年代以前の、右腕が上方に伸ばされた状態に誤って修復されたラオコーン。

現在では、1906年に新たに発見された”折り曲げられた右腕”の部品にすげ替えられて、その曲がった状態がオリジナルのスタイルであるということが定説になっています。


File:Laocoon-arm.JPG

1906年に発見された右腕部分。



この発見以降、持ち上げた腕を背中にまわし、苦痛に身もだえして上半身をそらせたポーズは、様々な芸術家に模倣・援用されました。



その影響は、ミケランジェロのあの有名な「瀕死の奴隷」像にも及んでいると思われます。





次回は、その”奴隷”像にしようかな・・・。


またも長~く書きすぎてしまいました。。。くどくてすみません。。。






なお、今回のこのラオコーン像に関する記述は、多くの部分を以下の資料を参考にしました。

ルネサンスの彫刻―15・16世紀のイタリア/石井 元章
¥2,940
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ルネッサンスの”彫刻”に焦点を絞った素晴らしい著作です。彫刻を中心に据えた書物って、探してみても驚くほど少ないんですよね~。。。絵画はいっぱいあるのにね。。。





今回取り上げた、H-011 ラオコーン半身像 は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。


きょうの石膏像     by Gee-sekkouzou.com