N-040 接吻
N-040 接吻 H.44×W.25×D.18cm (オーギュスト・ロダン作)
写真は、ブロンズ調に石膏像を着色した状態のものです。白い状態の写真が手に入ったら差し替える予定です。
この石膏像の原形はロダン作品からの直接の型取りではなく、私の工房と関わりのある原形師の方にお願いして制作していただいたものです。
フランス語では”Le Baiser”ということになります。
パリ・ロダン美術館の大理石の”接吻” 後ろのガラスケースの中は石膏の原形かしら・・・?
ロダン原作の石膏像をいくつもご紹介してきましたが、残り2点となりました。
今日ご紹介する”接吻”と、次回の”永遠の青春”の2点が最後になったのには理由があります。
それは、この2点の作品が”カミーユ・クローデル”と深く関わっている作品だからです。
彫刻家ロダンを語るときに、必ずと言ってよいほど登場してくる人物がこの”カミーユ・クローデル”という女性です。
特に1980年代以降、その再評価が進むにつれてロダンとカミーユ・クローデルは不可分の存在となっています。パリのロダン美術館には、ロダン自身の意思で、カミーユの作品のための展示スペースが設けられていて(1952年から展示)、現在ではカミーユ抜きでロダンを語るということは不可能と言ってもよいでしょう。
ロダンがカミーユ・クローデルと出会ったのは、1883年彫刻家アルフレッド・ブーシェから、若い女性グループの彫刻クラスの教師の代理を任されたときでした。。
当時、ロダンは43歳、カミーユは19歳。
二十歳の頃のカミーユ・クローデル
このころのロダンは長く苦しい下積み時代をようやく抜け出し、自分のアトリエを構え、下彫り工や職人たちを従えて自分自身の作品作りに没頭できる環境を手に入れたばかりでした。
実質的な妻として、それまでのロダンを支え続けてきたローズ・ブーレとは変わらず良好な関係でしたが、次第に成功を手にしてゆくロダンと、ひっそりとそれを支えるローズとの距離は徐々に離れてゆきました。
そんな時に出会ったカミーユ・クローデルは、若き女性でありながら紛れも無い”天才”のオーラを放っていました。(1882年、ロダンと出会う以前の”年老いたエレーヌ”という老女の首像を見ると、カミーユ・クローデルが素晴らしい才能を持った彫刻家であったことがよく分かります)
芸術的才気あふれる彫刻家の二人は、すぐにお互いを認め惹かれあうようになりました。
1884年頃から、カミーユはロダンの下彫り工として働きはじめました。同時に愛人となり、作品の共同制作者ともなってゆきました。
そんな時期に制作されたのが、今回とりあげている”接吻”という作品です。
デンマークのNy Carlsberg Glyptoteky の接吻
こういった男女の愛そのものを肉感的に描いた作品は、カミーユ・クローデルと出会う以前のロダンには無かったものです。また、カミーユと距離を置くようになった1893年以降は、こういった恋人同士を描く官能的な作品の数は減ってゆきました。
「接吻」、「永遠の青春」、「永遠の偶像」、「フギット・アモール」などがそういった作品群です。
ロダン作 「永遠の偶像」
またこの時期にカミーユ・クローデル自身をモデルにした彫刻「パンセ」、「曙」、「カミーユ・クローデル」といった作品もつくられています。
ロダン作 「カミーユ・クローデル」
こういった作品を見ると、この時期のロダンにとってカミーユ・クローデルという存在がいかに大きなものだったのかがよく分かります。
この二人は単なる愛人関係の男女ということではなく、お互いが天才的才能を持った彫刻家であり、しかも対等にお互いを認め合い、影響し合い、ある部分では共作といってもよいほど溶け合った作品を生み出してゆきました。
”ロダンのほとんどの作品はカミーユ・クローデルのアイデアの盗作だ”などという論調や、”カミーユ・クローデルの彫刻は、あまりにもロダンに似すぎている”というような評価を耳にすることがありますが、こういった評価はあまりにも事実を無視しているように思います。
二人が強く結びついた期間はほんの十年くらいで、それ以前、それ以降の時期に、二人はたくさんの”傑作”を生み出しているのですから。。
パリのチュイルリー公園内にあるブロンズ製の”接吻”
今回取り上げた、N-040 接吻は、私共の運営するオンラインショップ「石膏像ドットコム」で実際に購入していただくことが出来ます。以下のバナーをクリックすると、ショップに入れます。よかったら覗いてみてください。