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通りすがりの銘文です。
『人をも諂わず聊か異なる悪名もたたず』
私は
法華宗でも
ましてや
創価系でもないんですが(大笑)
この日蓮上人の
四条頼基公が主君との書状の際に
ご進言を添えたというべきなのか?
今で言うアドバイザー的に
書かれたそうなんですが、
人にお世辞を言ったり
気に入られるようにふるまう
そんな事をして
世の評判を気にしなくてもいいのだ
と、いったとこなんでしょうか。
基本、
日の本には
媚びへつらう文化というのは
ありません。
自分でやってて
いいなー
と、思った時もそうなんですが、
対人関係の場合、
特にそうなんですが
相手先から
良さそうな内容であれ
釣られそうな時であれ
価値のありそうな話であれ
正しき論であれ
もっともらしい進路であれ
そこに
身近なイラつきがあったり
普段のムカつきがあったり
煽りの焚き付けがあったり
過去の劣等感が根底にあったり
身分上の依存心・依頼心があったり
根底の甘えがあったり
そんな
そんな
愉快な
ワンサイドゲームのトーン
が、感じたのなら?
言わなくてもいい事や
聞かなくてもいい事や
しなくてもいい事に
評価を気にし過ぎるあまり
自分を抑えて
やらなくても
いいんです。
ホントに良いものだと
感じた時は
その大事そうなものを匂わさせる
と、言った目上の人からのトーンすらも
ぶっちぎりで超越するのだ(笑)
ガマンをするな
と、言う意味ではありません。
言いたいことを言え
とも愉快に違います。
言葉には
構文上の丁寧さと
周波数の抑揚で
愉快にカウントされます。
で、
丁寧さは
正し過ぎれば
ただの諂いなんです。
周波数だけは
愉快に
誤魔化せないんです(大笑)
なので
なので
その
自分に丁寧過ぎる事を
求められる場合に諂うは
相手が
そのトーンに押し下げる
シグナルであって、
後々の結果としては
本人を愛情で
押し上げてあげる気は毛頭ない
と、
愉快に斜めに見てあげた方が
ずいぶん自分自身の
気が楽なのだ(微笑)
その時の
ガマンというのは
試練ではないのだ
功名でもないのだ
優しさでもないのだ
ただの
巧妙な
ジンマシンな
ジレンマなのだ(大爆笑)
そんな
そんな
相手には
諂って小善人にならなくてもいい
喜んで大悪人になる
で、
案外
案外
それが
うまくいくものなのだ(微笑)
聊か異なる悪名もたたず
これでいいのだ
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