今日で雑学もパート170になります(^O^)
なんかここまであっという間だった気がしますね(゜∇゜)
因みにお知りになる方が多いと思いますが、写真は久々登場の我が家のアイドルげんちゃんです(≧∇≦)
いったい何処を見てるのやら(゜∇゜)
なんとげんちゃんは今年で12歳になる老犬、体調の方が心配になるこの頃ですf^_^;
しかし、結構な年なのに散歩やお出掛けは欠かさないのがげんちゃん!(^O^)
まだまだ若いヤツには負けないぞ!と思って頑張っているのかもなぁ(^O^)
ちょっとげんちゃんの話しが長くなるといけないので今日はこの辺にして雑学に移らせていただきますね(^O^)
一つ目の雑学は、銭形平次(ぜにがたへいじ)が十手(じって)を持っていた理由について書きたいと思います。
銭形平次は、野村湖堂の小説中の人物で実在はしないようですが、しかし江戸時代に銭形平次がやっていたモデルの「目明し(めあかし)」と呼ばれる人間はいたそうです。
目明しと聞くと何の職業なんだと思うかもしれませんが、これは「御用聞き」とか皆さんにも時代劇で馴染みが深い「岡っ引き」などと呼ばれていました。
目明しは町奉行の配下の同心がそれぞれ個人的に使っていたものだそうです。
なので、身分は役人ではなく、町内の用心棒といったところのようで、本当は小説やドラマの平次のように格好いいものではなかったみたいです。
十手は、捕吏(ほり)のシンボルですが、目明しにはそれを持つ権利はなかったそうです。
ただ同心と一緒に行動するときにのみ、十手を同心から手渡されていたようです。
銭形平次のセリフで、「お上から預かった、この十手にかけても~」と言うのは、実際はなかったということになります。
目明しの日常の生活は、町内の相談役、よろず引き受け役、苦情係といったところだそうで、犯罪ばかり追い回していたわけではないようです。
しかも役人ではないため、奉行所から給金が出るわけでもありません。
それでは、目明しはどうやって食べていたかと言いますと、町内のトラブルを収めるかわりに、博奕場(ばくちじょう)、興行場などから冥加金(みょうがきん)を得ていたようです。
銭形平次みたいに正義感の溢れる目明しもいたでしょうが、実際の目明しは、“毒を持って毒を制す"といった感じが強く、博奕打ちの親分と目明しの親分を兼ねていた親分もずいぶんいたみたいです。
江戸の町は、一○○万人近い人口だったにもかかわらず、同心は二○○人前後と圧倒的に少なく、町の顔役に十手をあずけるような形をとって治安を守っていたのかもしれません。
やっぱり現実はそんなものですよね(゜∇゜)
でも、まさか博奕場でトラブルを収めるかわりにお金をもらっていた何て驚きだなぁ(°□°;)
でも、奉行所から給料が出ないんじゃ仕方ないかも(゜∇゜)
二つ目の雑学は、間食の始まりは何なのかについて書きたいと思います。
間食と言えばケーキ等のデザートやお菓子を食べる楽しみなヒトトキですよね。
この間食の始まりは、二食しか食べなかった昔の人々が、食事と食事の間に食べた果実や木の実にあります。
文字で見ますと、「菓」も「果」も、果物のことで、「子」は種(堅果)という意味なんだそうです。
このようにして始まった間食菓子は、奈良時代になって穀類のデンプンを加工して作る間食が盛んになるにつれ、果実には水菓子や、干菓子(ひがし)の名があてられるようになりました。
水菓子は柿、梨、梅、桃、ビワ、瓜、橘、栗、胡桃(くるみ)、棗(なつめ)等で干菓子は水菓子類を干したものだそうです。
加工された菓子は「唐菓子」と呼ばれました。それは唐の製菓法を輸入したためだそうです。
間食の始まりにはそういった理由があったんですね(゜∇゜)
水菓子も結構な種類の果実を使って作られていたようで、奈良時代からだと考えるとかなり古いなぁ(゜∇゜)
次の記事に続く(^O^)