岸信介と憲法改正② | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 ①の続きです。

 「祖国と青年」昨年6月号より。

 


 岸路線か、吉田路線か

 

 この岸らが確立した自主独立路線は、鳩山、石橋を経て、岸首相の時代に本格的に軌道に乗ることとなる。岸首相は、六〇年安保騒動の大混乱の中で新安保条約を成立させ、昭和三十五年七月に退陣した。


 本来ならば、明治期の政府が、幕末に結ばれた不平等条約を改正するために数十年にわたる努力を続けたように(治外法権の撤廃は明治二十七年、関税自主権の回復は同四十四年)、憲法をはじめとする占領体制を是正するための長期の努力が、ここから継続されるはずであった。


 ところが、続く池田勇人、佐藤栄作は、再び吉田路線に戻ってしまうのである。池田首相は「所得倍増計画」で知られるが、続く佐藤首相も、岸信介の実弟であり、沖縄返還などの大きな仕事を成し遂げながらも、大きな流れとしては「軽武装、経済重視」路線を採った。二人とも、占領期において吉田茂を支えた、いわゆる「吉田学校」の出身者であった。岸は、二人が憲法改正を放棄したことに対して、次のように苦言を呈している。


「私が総理を辞めてから、あまりにもだな、池田および私の弟が『憲法はもはや定着しつつあるから改正はやらん』というようなことをいってたんでね。(中略)制定の手続きにも間違いがあるし、内容にも誤りがある。あれは占領政策を行なうためのナニであった。その辺の事情を国民に十分理解せしめるという役割は、総理が担わないといけないんです。総理みずから改憲に意欲を持ったのは私が最後なんです」(『岸信介証言録』)


 「総理みずから改憲に意欲を持ったのは私が最後」と岸が語った通り、その後長らく自民党では、吉田路線、すなわち池田勇人の流れを汲む宏池会こそが保守本流であり、岸路線は傍流、とみなされてきたことは周知の通りである。これが、なぜ自民党は結党の政綱に憲法改正を掲げながら、憲法改正に取り組もうとしてこなかったのか、という不可思議の理由である。「半独立」の占領政治が、戦後日本の路線となったのである。

 

 「憲法は、国の未来、理想の姿を語るもの」

 

 「半独立」の占領政治は、戦後日本に何をもたらしてきたか。例えば、吉田政権末期の昭和二十九年八月、韓国による竹島の実効支配を阻止しようと海上保安庁が巡視船を派遣したところ、韓国側から約四百発の機銃掃射を浴びるという事件が起こった。主権回復から二年後のことである。韓国が武力を以て竹島を奪取する意志を明白にした一方で、わが国は武力を行使してでも竹島を守るかが突きつけられた事件であった。


 ところが、吉田政権は「実力による対抗手段は避けて、外交交渉により平和的解決を図るという基本方針」「平和解決――国際紛争に武力を使わないということは、われわれの深く信じて居るところであります」として、竹島の奪還を放棄したのである。その結果、わが国の固有の領土である竹島は、今日まで韓国の実効支配下に置かれ続けているのである。


 また、福田赳夫首相の昭和五十二年には、日本赤軍によって日航機がハイジャックされる、ダッカ事件が起きている。福田首相は「一人の命は地球より重い」として、テロリストの要求に全面的に屈し、身代金六百万ドルを支払い、獄中の赤軍メンバーを釈放した。


 そしてちょうどこの時期に、横田めぐみさんを始めとする北朝鮮による日本人拉致が頻々と起きているのは単なる偶然だろうか(政府認定十七人のうち十三人が、昭和五十二~五十三年に拉致されている)。


 左派は「憲法九条によって戦後七十年の平和は守られた」などと吹聴するが、何のことはない。実際には、「平和」の美名の下に、都合の悪いことは「見て見ぬふり」をして、「なかったこと」にしてきただけのことである。北朝鮮による日本人拉致も、「なかったこと」にして、その後二十年にわたって放置し続けてきたことを、私たちは忘れてはならない。占領政治の象徴である現憲法は、根本的な欠陥を抱えたまま様々な犠牲を生み続け、今日に至っているのである。


 戦後七十年を迎えた今、私たちは改めて、これまでの「半独立」路線のままでいいのか、それとも責任ある主権国家として「真の独立」を目指すのかを問わねばならない時代を迎えている。


 (中略)


 憲法改正を目指すことは、戦後七十年引きずってきた「半独立」の占領政治と決別し、自らの足で立つ「自主独立」国家を目指すことに他ならない。