臨死体験 | 不思議なことはあったほうがいい

  事故や病気で生死をさまよい、再び目覚めたとき語られる、「この世」と「あの世」の境へ行ってきた‥‥という体験談。

 たいていの臨死体験には共通する項目があるようだ。

 1、幽体離脱。自分の寝ている(死んでいる)姿を外側から見ている。そのときの様子や周りの人の会話などを、蘇生したとき覚えている。

 2、さらに魂の浮遊。自分の知らないはずの遠いところでのできごとを見聞きしている。たとえば、東京で「死んでいた間」に、大阪の親せきのうちを尋ねたりしている(逆に、人の夢枕などに遠方にいるはずの人物があらわれ、気にしていると死亡通知がくる、その時刻はまさにあの夢のときと一致していた‥)。

 3、真っ暗なトンネルや・野中の一本道をゆくと、はるかむこうに光がみえる。不思議と不安はない‥‥。 

 4、賽の川原訪問。川が流れている。その向こう側にはとてもキレイなお花畑が広がり、向こう側には、既に故人となった、親類や友人がいたりする。おもしろそうだなあと面って川を渡ろうとすると、向こう側の人たちが「帰れ」という。あるいは逆に「オイデオイデ」という。行くことを拒否したり、後ろから生きている家族や友人が、オーイオーイと呼ぶ声がする。それらに従うと生き返る。実際の「この世」でも家族は懸命に彼・彼女の名を呼びさけんでることもある。じっさいそれで助かると信じて「哭き婆」が活躍した時代もあったのであった。
 5、ときに、川原にて正塚婆(奪衣婆)とであったり、閻魔さまにであったり、お地蔵さんにであったり‥‥という、物語的体験をする人もあるという。

 似たような体験の話は、世界中にあるらしいが、さすがに欧米人の体験に賽の川原や正塚婆・閻魔さまなどは出てこないし、日本人の体験(とくに古い時代のそれ)に天使や雲上の父など出てこないだろ。文化や環境によってその情景が変わるということは、やっぱり「あの世」は固定した存在ではないのだ‥‥。


  この手の話でオモシロイのは、その体験の間は、「恐くなかった」とか「やけに楽しそうなところだった」とか「めんどくさいからこのまま死のう」とかいう人が(高齢者に多そうだが)、少なからずあることで、なんともノンキでひょうひょうとしている。こうした感性にあっては生死はあまり重大な場面ではない。これぞ《宗教》の醍醐味とでもいおうか。とにかく、格闘技のシメ技で上手くやってもらうと、じつに気持ちヨイらしいので似たような感じであろうか。文化環境の違いを越えて、ナントナク似ている体験をする、ということは、そもそも人の体には、生命の瀬戸際にそうした光景を見るような仕組みがあるのではないかと考えた学者もあったそうで、酸欠状態が続き、炭酸ガスの濃度がたかまると、脳内信号がそうした幻想をみせるのではないか? と主張する医者もいるらしいが、定説をみない。なんでも大麻とか覚せい剤とかでも同じような「幻覚」があるそうだ。

 

 でも、あんまりそれを強調すると、「楽になれる」と思って安易に自殺する人が増えちゃうかもしれない。だから、死んだって、そのあと地獄・煉獄が待っている人もあるのだぞ、餓鬼道(ひだる神) に墜ちるものもあるのだぞ、やはり現世を一所懸命正しく生きねばならぬのだぞ、と訓育するのである。


 臨死体験というのは、当然ながら、体験した人しか実感的にわからないから、体験を通して「心霊」の存在や「あの世」の実在を主張してもじつは説得力はカケラもない。それでも、そういう世界に興味をもち、憧れ・恐れる気持ちがあるのは、われわれは根本的に、未知の世界・未知の領域にたいする好奇心にあふれる存在であり、その好奇心こそ、人類の進歩の原動力でもあるのだ。