舌切り雀 | 不思議なことはあったほうがいい

 関啓吾・編の岩波文庫『桃太郎・舌切り雀・花さか爺』に載っている石川県江沼の話はこんなかんじ。

 ある日爺さんが山仕事中、弁当をに食われたが、弁当箱の中でカワイクちょこんとしているので、連れて帰ってかわいがる。その雀が婆さんの糊を食っちまって、怒った婆さんが雀の舌を切って放った。爺さんが哀れな雀を探してゆくと、牛洗いにであって、”爺御器十三杯婆御器十三杯分牛洗った水を飲めば教えてやる”というので、ゴクゴク呑むと、馬洗いに訊けという。同じく馬洗いの水十三杯×2をゴクゴク。続いて菜洗い、米洗いと同じく試練を通過して、教えてもらった雀の家。ここでご馳走のあと、お土産に小さなつづらをもらってかえり、中から大判小判ザックザク。それを聴いた欲張り婆さん、ダイレクトに雀の家にいって、大きなつづらをもらってかえり、中から毒蛇がでてきてガブリ。「みんなもそんなによくはしるな」。

 だいたい、自分の知っていた話も同じだが、途中の十三杯水飲まされる話は聞かなかった。


 夏休みに遊びに行った先で立ち寄った和紙屋さんで、巣から落ちた雀を育てて手乗りになるまで育てて飼っていて、「こりゃ舌切り雀みてえに恩返ししてくれるといいなあ」と話ていたので、なんで、恩返しになるのかなあ、とつぶやくと嫁がいう。「あんた腰折れ雀の話知らんの?」


 『宇治拾遺物語』「雀、恩に報いる事」ではこんな話。

 ある日、婆さんが庭で腰を折って難儀している雀を見て、カワイソウにと拾い上げ、薬をやって介護した。家族のもんはバカにしたが、かまわず看病したので、回復し、飛んで去った。数日たって、ヒサゴ の種を銜えてかえってきた。その種をまくと、えらいたくさん実がなったので、家族や近所でおいしくたべて、さらに大きなやつは道具にしようとして育てると、やがて中から米がたくさん湧き出した。これを聴いた隣の強欲婆さんは、わざと石をぶっつけて雀の腰を折る(それも三羽も!)と、薬をやって介抱し、元気になったので放した。するとやはりヒサゴの種を銜えてきたので、これをまくと実がなった。これをみんなで食ったら、くそまずくてしょうがない。おまけに道具用のヒサゴの中からは毒虫がウジャウジャでてきて、婆さん刺されて死んでしまった。「さればものうらやみはすまじき事なり」。


 ナルホド。

 「隣の爺(婆)」型物語といって、「花咲爺」や「こぶとり爺」、御伽草紙の「福富長者」など、他人の成功を妬んだりしてはいけません、という教訓話で中国・朝鮮にも似た話があるから、もとは大陸わたりの説話であろう。

 ところで、嫉妬や羨望というものは、なくそうとしてもなくなるもんではない。それを脱することが仏教の修行なのであろうが‥‥いや、むしろ、そういう欲望は肯定的にとらえつつ、その欲望を「正しく達成する」ことを目指したほうが人類の益ではなかろうか。つまり、外見・所作・状況だけ真似てもけっして上手くゆくはずがない。成功者には成功者なりの理由があるので、それはたとえば、カワイソウな雀や、カワイイ犬を愛でる優しい心であり、自分の特技や能力(コブトリ爺さんの踊りや、福富織部の放屁術)を正しく使えるヒトの技量であろう。そうした心や技量を、学び育てることができたなら、隣の爺・婆(ときには正直爺の相方の意地悪婆)も「成功」できたはずではないか。他人と同じことをしても、自分は自分でしかないのだから、自分なりに頑張って自分なりの成功を修めることがほんとうの幸せなんだ‥‥われながらいいこというなあ。

 でも、それは子供や青年にはいいけれど、老い先短い老人には、そんなことしてる暇などないから、結局・猿真似せざるをえないのか‥‥?


 弁当箱(割籠であろ)の中の生命、異界訪問、ペットの報恩‥‥おもしろそうなテーマがいろいろにじんできます。


→不思議なお宝「打出の小槌 」→少彦名(と大国主)