今日、渋谷タワーレコードでヤン(富田)さんのレコ発ライブがあり、俺は飛び入りで出演したのだが、その折にダブマスターXから「いとう君の恩師がなくなったんだって?」と聞かれて初めて、俺は内田勝さんの死を知ったのだった。
 数年前から覚悟はしていたがショックだった。

 内田さんは大先輩編集者であり、俺が講談社にいたとき所属していた局の局長であった。
 『少年マガジン』で「あしたのジョー」をヒットさせたのも内田さんなら、「銭ゲバ」の主人公の顔のモデルも内田さんだと言われている。
 のちに『HOT DOG PRESS』を創刊したのも同じ内田さんで、俺はその編集部の下っ端編集者だった。

 そもそも、俺が講談社に入社出来たのは内田さんのおかげだと思う(おそらく、最終面接に内田さんがいたはずなのだ。そうでなければ、俺みたいな者が講談社に入れたはずがない)。辞めたときにも俺は内田さんにお世話になった。
 社員でありながら他メディアに出没していた俺が辞めさせられずにいたのも、実は内田さんが守ってくれていたからだと、のちのち『HOT DOG PRESS』の元編集長・土屋さんに聞いたことがある。

 当時の編集部の先輩、山田(五郎)さんに「お前のことで、しょっちゅう重役会議が開かれてたよ」と言われたこともある。
 そういうとき、内田さんは俺のために論陣を張ってくれていたのだろうと思う。

 なのに、俺は何も知らず、自分の力で何もかも進んでいると思い込んでいた。
 二十代前半のことである。
 ガキもいいところだ。


 二年ほど前、内田さんと六本木で一緒にごはんを食べたのが忘れられない。
 俺の憧れの編集者だったから。
 一緒にめしを食える日が来るなんて、俺は夢にも思わなかったから。

 その夜も、相変わらず内田さんの話は「早かった」。
 時代の先を行くという点において、俺は内田さんにまったくかなわなかった。


 ダブちゃんは、内田さんと俺の関係を竹熊(健太郎)さんのブログで知ったのだそうだ。
 そこ(たけくま日記)には、俺の辞表を内田さんがなかなか受け取らず、留意を促したとあるが、事実はより面白い方向に違う。

 内田さんは俺の辞表をすぐさま受け取り、こう言ったのだ。

 「僕も出版の時代はもう終わりだと思います。伊藤さんはいい時期に辞めますね」

 そして、これからはマルチメディアだという最後の講義を俺にしてくれた内田さんは、これからどうするつもりかと質問をしてくれ、俺が“テレビなどの仕事をしていくと思います”と答えるや否や、テレビ局のトップに電話をかけ始め、“うちから伊藤というなかなか見込みのある若者がそちらの世界に行くので、よろしく”と挨拶をし、受話器を置いてこう言ったのだ。


 「さあ、行きなさい」


 二十年以上前のことである。



 



 俺は一生、内田さんの子分だと思ってきたし、今もそれは変らない。

 俺は出版出身で、ずっとマルチメディアをやっていくのだ。

 内田さんの子分として。



 合掌