私にとって進学会で私達の指導をしてくださった柴田・西川先生は大恩ある大先輩です。

あの人達に教えてもらった「しゃべること」「お金をもらって客に価値を提供すること」の基本、それが今の私の原型であり、あの二人がいらっしゃったから今の私とパンドラボックス、放送サークルがあると心の底から思っています。

昨日、おまみさんと並んではじめて進学会時代の後輩であるちゅうそんが月イチ恒例の「私SEIJIが尊敬する大人達との飲み会」に参加してくれた(おまみさんとはすれ違いで会ってはいないけど)ので、その時、久しぶりに柴田先生に言われたことを口に出しました。


昨日の記事で西川先生にしてもらったことを書いたので、今日は柴田先生に言われたことを書いてみようと想います。





「伊藤、お前 もうちょっと、こう、なんとかならんか?」





塾講師時代、全国ランキングがどうとか昨日は言っていたけれど、入ったばかりの私は【ブラック講師】でした。


生徒から集めたアンケートを元に、夏期講習会や正月特訓など定期的に全国の講師ランキングが発表されてベスト30までは名前が乗ります。


それ以下の人たちは給与明細と一緒に渡される「全国何人中何位」という紙で自分の成績を知るのですが、最初の時に見方がわからなかったので先輩である西川先生にその紙を見せたら


「伊藤くん、これ、ブラックだね。」


と気まずそうに言われました。


話を聞くには全国300人ぐらいの講師の中から下位10%、すなわち30人ぐらいをブラックと呼び、それが何期も続くようならクビになる。


私の講師人生は最下位に近いところからスタートしました。


今かんがえると私の授業はお世辞にもうまいとは言えないものだったのでしょう(当時はそれすらよくわかっていなかった)、その後もブラックからそれすれすれの成績しかとれず、いつか書いたように、最初に自分が受け持つクラスを崩壊させ、自らギブアップした「はじめての挫折」を経験したのもその頃です。

まさに「超絶劣等生講師」というのが1年目の私でした。

そんな時、私の芳しくない評判を聞いたのでしょう。事実上理社科のトップとして私達をひっぱってくれていた柴田先生から夜中にお呼び出しがかかりました。

柴田先生はおっさんが乗るような(失礼!)セダンタイプのファミリー車に乗ってられたのですが、自分の授業終わりに私の家の前まで迎えにきてくれ助手席に乗せて、ドライブに。

その時の第一声が


「伊藤、お前 もうちょっと、こう、なんとかならんか?」


たぶん、西川先生、もしくは松江本部の本部長から「伊藤をなんとかしてくれ」とトップの柴田先生に何か働きかけがあったのかもしれません。

柴田先生はこう続けられた、と記憶しています。


「お前はちゃんと勉強会にも来るし、真面目にやってて授業でいい加減なことをやっている感じでもない。


それなのにお前の授業の評判が芳しくない。


俺らも一生懸命教えてるつもりやねんけどなぁ・・・。


だから、お前も、もうちょっと、なんとかならんか?」


正直、




(そんなことを言われても・・・)



半ば愚痴のような柴田先生のその言葉に困惑をしたのを覚えています。



そしてそのあとのこと、何をはなしたのかは覚えていません。




同じ先輩でも、授業にはいつも真剣で自分にとても厳しいけどその実プライベートではだらしないところもある、気のいいアニキみたいだった西川先生に対して、いつもいうことは理路整然で、何をするにもキチッとしていて、気の使いようといい何にしても模範的、でもちょっとした茶目っ気やユーモアもある、まさに私達のよき先生みたいだった柴田先生。

西川先生と私は学校いかない同士、とても気があってプライベートで遊びに行ったり、進学会の地下?駐車場で夜が明けるまで語り明かすようなことも多かったのですが、あまりプライベートでの関わりがなかった柴田先生も西川先生と同じぐらい好きでした。



たぶんそれは、あの時の、あの言葉に代表されるように、「ちゃんとこいつらを、一人前にしてやるんだ」という深い愛情がその言動の節々に感じられたからでしょう。


あの言葉が具体的にどうというわけではないけれど、「私には、私の成長を願い、時間や労力をさいてくださっている尊敬すべき先輩がいる」というのは深く心に残りました。

それゆえに私はペットの犬が飼い主に懐くかのようにあの二人を慕っていました。


それは出雲からいつも遅れて帰ってくる同僚のT松くんに


「伊藤園がまだおるってことは、今日は先輩方はおられるということやな」


と皮肉られるぐらい。



10年経った今、私はあの時の柴田先生と同じことをよく愚痴っています。


「お前ら、もうちょっと、こう、なんとかならんか?」





「 自分らがよう頑張っているのはわかるし、それなりにようやっているのはわかるが、なぜここまでつまらん?」


また「今だけの夜遊び」の初回の後、あまりのちぐはぐさに、ディレクターの年金に言うべきことを言ったあと、こと涙を流すに至った悩めるゆかちゃんに道を示すため、帰り、車で送るついでに「海を見にいこう」と島根町まで連れていった時のこと。



アタマの中にあったのは柴田先生がしてくれたことでした。ゆかちゃんがこれからなすべきこと、考え方、姿勢。私なりに思ったことを伝えようとしたのですが・・・


しかし、うまくはいかない。


今のゆかちゃんの目には、あの時私をドライブに連れ出した柴田先生のようには映っていないのだろうなぁと焦りながら。


でも今かんがえると柴田先生も今の俺みたいに困ってられたのかもしれない。

いつも理路整然と「これは、そうじゃなくて、こう」とはっきり教えてくれていたのに、あの時だけは言ってることが意味不明だったから。


もしかしたらみんな一緒なのかもしれないなぁ。



考えてみれば、私の講師人生は幸運で幸せでした。



あんなに素晴らしい方々にご指導いただけたのですから。



私が塾に入って3年目の終わりに、柴田先生は大学院を卒業され西川先生は中退という形でまったく同時に私達の前からいなくなりました。


そしてその後の5年以上。私にとっての島根暮らしはとてもつまらないものでした。

「島根はつまらん」

「松江はキライだ。」


そんなことをいいながらおめおめと今まで無為に時間を費やしてきましたが、最近またおもしろくなってきたのは、昨日もお話しする機会をいただけた、みしまやの三島専務や玉造温泉の角さんにあのお二人の姿を重ねているのかもしれません。


そして同時に


「柴田・西川のお二人のような人格・見識・面倒見のよさをもつ人間ではない限り、人を指導してはいけない」


私は心の底からそう思い、頑なにそれを守り続けてきました。


しかし、今こそあの二人が私にしてくれたことを、学生達に返す時かもしれないなぁ、と最近はよくお二人のことを思い起こします。

そして、


「今の私があるのは柴田・西川両先生のおかげ」


そう思いつつけていけば、またいつかお会いする機会もあるでしょうし、その時


「あの時のブラック講師はお二人のおかげでこんなに立派になりました。」


と言えるようになれたらと思って、これからも、いろんなことを頑張りたいと想っています。


最後に改めまして、



「柴田先生、西川先生。


 その節は、本当にお世話になりました。」





以上、私の長文にお付き合いいただきありがとうございました。


それではまた明日!



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