真言僧儀海の足跡 四 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2013年1月30日 (水)

真言僧儀海の足跡 四


 四  東国における仏教史の推移

東国における仏教の推移を考える時、常陸国・下野国・上野国における古代から中世にかけての仏教の歴史について知ることが重要であるように思える。

 常陸国は京からみても特別な位置にあった。東海道の果ての地であり、武神として鹿島社が祭られ、王城鎮護の神とされていた。田積四万町は陸奥国につぐ大国であり、親王任国とされたことにも明らかなように、常陸の受領となることを中・下貴族はひとしくのぞんだ。また遠流の国として、不遇な貴族が流され、都の文化をもたらした所でもある。鎌倉時代の常陸は特別な国であったと思われる。奈良西大寺にあった律宗の忍性が下って根拠地としたのがここの三村寺である。父の墳墓のある陸奥に旅した一遍が鎌倉に入る前に布教を試みたのも常陸である。その他にも日蓮宗・禅宗も入ってきて、常陸は鎌倉と並んで新仏教のすてがそろって盛んな布教をおこなった土地である(五味文彦)。『沙石集』の著者、無住も三村寺に住んだことがある。  

 下野国もまた特別な国であった。下毛野朝臣古麻呂は下毛野国造の一族で、大宝元年(七〇一)に制定された大宝律令の編者のひとりである。地方豪族の出身でありながら、藤原不比等の信任篤く、正四位下にのぼり、兵部卿、式部卿を歴任した。下野薬師寺の創建は天智天皇九年(六七〇)とも、大宝三年(七〇三)とも伝えられている。東大寺、観世音寺と並ぶ三戒檀のひとつが下野薬師寺に設置されたのも、古麻呂の中央政界における政治力の影響であるという。藤原氏(中臣氏)は元々鹿島神宮の祭祀者の家系であったという説がある(鹿島神宮には国譲りで活躍したタケミカヅチが祭られている)。また群馬県吉井町にある、多胡碑の碑文に「…中略…右大臣正二位藤原尊」とあり、碑文中に和銅四年(七一一)三月九日甲寅とあることをみても藤原氏との深い繋がりをうかがえるとおもわれる。

下野薬師寺は前法王太政大臣禅師道鏡が、位階をことごとく剥奪され、この寺の別当として左遷されてきた。宝亀元年(七七〇)八月のことであった。一介の修行僧から位人臣を極め、天皇位まで狙った怪僧道鏡も、二年後の宝亀三年(七七二)四月失意のうちに、その波乱の生涯をこの地で閉じた。

最澄の初期天台教団を支えた僧に道忠がいる。受戒制度を整えるために度重なる遭難を乗り越えて来日し東大寺戒壇院などを設置した戒律の師、鑑真〈唐・嗣聖五年(六八八)~日本・天平宝字七年(七六三)〉の高弟、「持戒第一の弟子」と称され、『元亨釈書』などに鑑真の弟子と記された日本人は道忠ただ一人であった。天平宝字五年(七六一)下野薬師寺に戒壇を設立するに際した派遣され、東国に定着したのではないかという推測されている。道忠の東国移住は、師寂して後の鑑真思想具現のための帰国ではなかろうか(『熊倉浩靖』)。

最澄と東国の重要な関わりは、延暦一六年(七九七)比叡山上に一切経を備えようとしたおりの道忠の助写である。この一切経書写には大安寺僧聞寂なども協力したが、『開元釈経録』によれば一〇七六部五〇四八巻に及ぶ一切経の四割、二千余巻は道忠による助写だった。最澄は法相宗の徳一との間に五年間に及ぶ「三一権実論争」を展開した。中国唐代の『法宝』と『慧沼』との間に交わされた論争を、日本に引きついだもので、天台宗・華厳宗の立場は〈三乗方便一乗真実〉、法相宗の立場は〈三乗真実一乗方便〉である。それは東国における徳一の布教と道忠の門弟達による布教活動による軋轢となって、最澄の東国巡錫の一因ともなった。

徳一 生没年不詳 平安時代前期、陸奥国会津在住の法相宗の僧生没年に諸説あるが、天平宝字四年(七六〇)ごろ~承和七年(八四〇)ごろの人とおもわれる。のち、恵美押勝の子とされた。若年の際、奈良(おそらく東大寺)で学び、二十歳ごろ東国へ移った。師は修円と伝えられるが疑問がある。弘仁六年(八一五)、空海は弟子康守を東国の諸方面へ遺わし、徳一にも香をそえて書簡をおくり、新しい真言の書籍を写し、広めることを依頼した。徳一は空海に対し、真言教学の十一疑問をあげた『真言宗未決文』を著した。同八年ごろから最澄との間に激烈な論争を行い、天台教学・一乗思想を批判し、法相教学・三乗思想の真実性を主張し、『仏性抄』一巻、『中辺義鏡』三巻、『慧日羽足』三巻、『遮異見章』三巻、『中辺義鏡残』二十巻その他を著した。三一権実諍論とよばれる。著書は、『止観論』を含めて十七種の名が伝えられるが、『真言未決文』『止観論』以外は散佚した。

古代の上野国・下野国は多くの僧が仏教の布教活動に専念できる豊かな地域であったのである。道忠の門下では上野国浄土院(緑野寺)系の円澄・教興・道応・真静、下野国大慈寺(小野寺)系の広智・基徳・鸞鏡・徳念がいる。その中では円澄(第二代天台座主)と円仁(第三代天台座主)はともに天台座主となっている。最澄の死後天台教団の責任者(初代天台座主)となったのも相模国の出身の義真であった。最澄入唐の際に通訳として同行し、最澄と共に天台および密教を直接唐の師について学び、具足戒および菩薩戒を受けて帰国した。円仁は、著名な『入唐求法巡礼行記』と題する記録を遺している。そして、天長六,七年ごろ(八二九―八三〇)に東北地方を巡錫したことがあった。『三千院本伝』、『通行本伝』がともに伝えているところである。しかし、この伝えを歴史的事実とはみなさない説もある。

下野国薬師寺は平安時代に入り、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置きそれぞれが独自に戒をさずけるようになった。それに伴い、戒壇院もその役目が失われ、九世紀中ごろ、大火に見舞われ、伽藍の中心が焼失した。十一世紀には荒廃し鎌倉中期に再興の動きがあったが長続きはしなかった。下野薬師寺の再興に努めたのが慈猛である。

慈猛 じみょう 建暦元年二月(一二一一)~健治三年(一二七七)。鎌倉時代の僧。字は良賢。密厳上人・薬師寺長老・留興上人とも称される。はじめ比叡山に登り出家して入仏房空阿と称し、隆澄に、恵心流を学び、顕豪に旦那流をまなんだが、のち唐招提寺良遍に律を学び下野薬師寺に下ったという。一方、寛元二年(一二四四)高野山金剛三昧院で上人潅頂を受け密教を学び、慈猛と改め、さらに願行上人憲静とともに意教上人頼賢から東密三宝院流を、また浄月上人から同流を受けた。後世その流れを慈猛流・慈猛意教流などと称する。慈猛は薬師寺を中心に活動し、関東で彼から律・密教を学ぶ僧が多く、特に下野小俣鶏足寺学頭頼尊は久しく就学し、文永五年(一二六八)伝法潅頂を受け慈猛意教流を相承した。以後鶏足寺は同流の本寺となり、同流は下野・上野・武蔵を中心に広く関東に伝わり、同地における真言宗の展開に大きな役割を果たした。後宇多天皇より留興長老の号を賜わった。健治三年(一二七七)四月二十一日没。六十七歳。なお、これまで慈猛と密巖上人を別人とする書が多いが、無住は直接慈猛に会った話を『雑談集』四に載せて、「下野ノ薬師寺ノ長老密厳故上人」と記している。よって同人とすべきであろう。

 法然門下の親鸞は越後に流された後、罪をとかれても京には戻らず、笠間稲田に庵を結び、東国での布教に専念した。親鸞四十五歳、健保五年(一二一七)~嘉禎元年(一二三五)の約二十年間の長い年月であった。又、『教行信証』の草稿はこの庵で完成させたという。それを支えたのは鎌倉御家人笠間時朝とその一族であったと思われる。

 次に年代順に東国に影響を与えた事柄を略記する。



 健保五年 (一二一七) 親鸞、越後より関東に来る?

貞応元年 (一二二二) 日蓮、生る。

 元仁元年 (一二二四) 親鸞『教行信証』を著す。

       一、「善人なをもちて往生をとぐ、いうはんや悪人をや。しかるを、世の

       ひとつねにいはく、「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」と。

       この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。

       そのゆへは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむこゝろかけたるあ

       ひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、

       他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足の

       われらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるを哀た

       まいて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみ

       たてまつる悪人、もとも往生の正因なり、よりて善人だにこそ往生すれ、

       まして悪人は」と仰さふらひき。〔歎異抄〕

 嘉禄二年 (一二二六) 頼瑜、生る。一二月二八日 無住、生る。

 安貞元年 (一二二七) 道元帰朝し、曹洞宗を伝う。

 貞永元年 (一二三二) 明恵(高弁)没する。

 文暦元年 (一二三四) 幕府、専修念仏を禁ずる。

 嘉禎元年 (一二三五) 親鸞、関東より帰洛か?

 延応元年 (一二三九) 一遍、生る。

 建長二年 (一二五〇) このころ、道元『正法眼蔵』を著する。

      又、或人スヽミテ云、「仏法興隆ノ為、関東ニ下向スベシ。」答云、不然。

      若仏法ニ志アラバ、山川江海ヲ渡テモ来テ可学。其志ナカラン人ニ、往

      向テスヽムトモ、聞入シコト不定也。只我ガ資縁ノ為、人ヲ抂惑セン、

      財宝ヲ貪ラン為カ。其レハ身ノ苦シケレバ、イカデモアリナント覚ル也。

       一日弉問云、叢林ノ勤学ノ行履ト云ハ如何。

       示云、只管打坐也。或ハ楼下ニシテ、常坐ヲイトナム。人ニ交リ物語

      ヲセズ、聾者ノ如ク瘂者ノ如クニシテ、常ニ独坐ヲ好ム也。

      〔『正法眼蔵随聞記』〕

建長四年 (一二五二) 忍性、関東に下る。十二月四日、常陸三村寺に入る。

建長五年 (一二五三) 四月、日蓮、鎌倉に移り法華経を唱う。道元、没する。

文応元年 (一二六〇) 日蓮、『立正安国論』を著し、時頼に進上する。剣阿、生る。

      若し先ず国土を安んじて、現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし、

      悤いで対冶を加えよ。所以は何ん。薬師経の七難の内、五難忽ちに起り二

      難猶残せり。所以「他国侵逼の難、自界叛逆の難」なり。大集経の三災の

      内、二災早く顕われ一災未だ起こらず。所以「兵革の災」なり。金光明経

      の内、種種の災過一一起ると雖も、「他方の怨賊国内を侵掠する」、此の災

      未だ露われず、此の難未だ来らず。仁王経の七難の内、六難今盛にして一

      難未だ現ぜず。所以「四方の賊来って国を侵すの難」なり。加之、「国土

      乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」。今此の文に就て、

      具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ、万民多く亡ぶ。先難是れ明かなり、

      後災何ぞ疑わん。(中略)汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の

      一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方

      は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊なくんば、身

      は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」。

      〔『立正安国論』〕

 弘長元年 (一二六一) 忍性、鎌倉に入り、極楽寺に招請さる。

 弘長二年 (一二六二) 二月、西大寺叡尊、鎌倉に入る。十一月親鸞、没する。

      五月一日、諸人の所望により、今日よりまた古述を講ぜらる。また、食

      を儲け、両処の悲田に行き向い、食を与う。ならびに十善戒を授く。

      〈忍性、浜悲田に向う。頼玄、大仏悲田に向かう。〉〔関東往還記〕(頼玄


は三村寺長老)

文永四年 (一二六七) 八月、審海〔寛喜元年(一二二九)~嘉元二年(一三〇四)〕下野薬師寺より、称名寺に入寺する。

文永十年 (一二七三) 意教上人、鎌倉にて没する。八十歳。

文永十一年(一二七四) 日蓮、久遠寺を創建する。十月、文永の役。

      蒙古人対馬・壱伎に来襲し、既に合戦を致すの由、覚恵注申するところ

なり。早く来二十日以前、安芸に下向し、彼の凶徒寄せ来らば、国中の

地頭御家人ならびに本所領家一円地の住人等を相催し、禦戦せしむべし。更に緩怠あるべからざるの状、仰せによって執達くだんの如し。

  文永十一年十一月一日     武蔵守 在判(北条長時)

                 相模守 在判(北条時宗)

〔東寺百合文書〕ョ函 文永十一年(一二七四)十一月一日関東御教書

健治三年 (一二七七) 慈猛(密厳上人)没する。

弘安二年 (一二七九) 無住、『沙石集』執筆開始、四十六歳。儀海生る。

弘安四年 (一二八一) 閏七月、弘安の役。

      七年、(中略)方慶と忻都・茶丘・朴球・金周鼎等発し、日本世界村大明

      浦に至る。通事金貯をしてこれに激論せしむ。周鼎先ず倭と鋒を交え、

      諸軍皆下りて与に戦い、郎将康彦・康師子等これに死す。六月。方慶・

      周鼎・球・朴之亮・荊万戸等、日本兵と合戦し、三百余級を斬る。日本

      兵突進し、官軍潰え、茶兵馬を棄てて走ぐ。王万戸復たこれを横撃し、

      五十余級を斬る。日本兵すなわち退き、茶丘僅かに免る。翌日また戦い

      て敗績す。軍中また大いに疫し、死者凡そ三千余人。忻都・茶丘等、累

      戦利あらず、且つ范文虎の期を過ぎていたらざるをもって、回軍を議し

て曰く、「聖旨、江南軍と東路軍をして、必ずこの月望に及びて一岐島に

会せしむ。今南軍至らず、我軍先に到りて数戦す。船腐り糧尽く。それ

将に奈何せんとす」と。方慶黙然たり。旬余また議すること初の如し。

方慶曰く、「聖旨を奉じて三月の糧を齎らす。今一月の糧尚在り。南軍

の来るを俟ち、合に攻めて必ず之を滅ぼすべし」と。諸将敢えてまた言

わず。八月。大風に値い、蛮軍皆溺死す。屍は潮汐に随いて浦に入り、

浦これがために塞がり、践みて行くべし。遂に軍を還す。

〔高麗史〕巻一百四 金方慶伝

弘安五年 (一二八二) 十月、日蓮、没する。

弘安六年 (一二八三) 無住の『沙石集』成る。この頃、吉田兼好生る。

      【一円】嘉禄二年(一二二六)~正和元年(一三一二)臨済宗の僧。沙

      石集の著者。鎌倉の人。俗性は梶原氏。無住と号し、大円国師と諡された。

      弘長二年(一二六二)尾張の長母寺に来住。叡尊が関東下向の時出迎える。


弘安七年 (一二八四) 北条時宗、没する。二月審海、称名寺条々規式を定める。

弘安八年 (一二八五) 十一月、霜月騒動、安達泰盛、五十五歳、一族滅ぶ。

正応二年 (一二八九) 八月、一遍(智真)没する。

三月下旬『とはずがたり』作者、後深草院二条(中世で最も知的で魅力

的な悪女)鎌倉に入る。七月まで病臥。

八月、新八幡放生会を見る。将軍惟康親王の廃されて上京するのをみる。

十月、久明親王着任の準備指導のため、管領平入道頼綱邸及び将軍御所

に赴く。飯沼新左衛門邸の連歌に招かれる。

十二月、川越入道の後室に誘われ武蔵国川口ヘ下る。越年。

正応三年 (一二九〇) 二月十余日、善光寺へ出立。高岡の石見入道仏阿の邸に滞在。

            八月十五日、浅草観音に詣でる。武蔵野の歌枕を訪れる。

            九月十余日、飯沼判官と別れの歌を贈答、帰途熱田に寄る。

正応三年 (一二九〇) 八月、叡尊、没する。九十歳。能信、生る。