吉田兼好と儀海
『徒然草』の作者、吉田兼好(卜部兼好が正しい、兼好法師)は弘安六年(一二八三)~観応元年(一三五〇)四月八日(?)の人であるらしい。林瑞栄によれば、兼好は金沢貞顕に仕えた倉栖兼雄(文保二年没す)という人物の「連枝」(兄弟)であり、兼雄の母「尼随了」が兼好の母で、兼好の父は倉栖某である。兼好は関東武家社会の出身者であったのではないかとした。従来は『卜部氏系図』によって兼好の父は兼顕で、兼顕には慈遍・兼雄・兼好という三人の子があったとされていた。この説によれば、兼好は武蔵国金沢で生まれ、八歳の時に京に迎えられたとすることもできる。また、兼好は二度鎌倉にきて金沢に居住したようである(徳治元年~延慶元年か?)。永井晋氏は人物叢書『金沢貞顕』(吉川弘文館)で新しい説を展開している。
儀海は弘安二年(一二七二)の生まれで、日野市の高幡不動(高幡金剛寺)所蔵法統譜によれば、観応二年二月二十四日の示寂とされる。兼好と儀海は共に同じ時代を生き抜いた。兼好は隠者として生き、儀海は求法沙門として生きた。
金沢文庫には義海の書状がのこされている。「儀海」とはなっていないので本稿の儀海であるかについては疑問であるが参考までに挙げておく。
愚身も此四五日違例、風氣と學候、兩三日之際ニ
不取直候ハゝ、講問事大難義□不定存候、尚々只
今芳問、返々殊悦候也、
御音信先承悦候、抑自去月之始病床之處、結句此間以外打臥
候間、是如仰旁令計會候、如此之式候之間、破立事も干今不
申入候、雖然途賜之條、恐悦候、御違例事驚存候、熟柿之熟
子にて候へとも、返々無勿躰候、以御暇申承候ハゝ、自他可
散欝念候、恐々謹言、
十一月六日 義海
侍者御中 御報
(ウハ書)
「(切封墨引)
義海状」