(ちょっと追記):任天堂ゲーの魔法 | みらいマニアックス !

(ちょっと追記):任天堂ゲーの魔法

前から思っていたことがあり、前のエントリでそれに関する言及があったのでちょっと追記。


マリオの新作は素晴らしいレベルデザイン、操作性、イマジネーション、創造性といったものはあります。ですが、ソニーやMSの側の素晴らしい大作にはほとんど常に存在しているそうした要素が備わっているのでしょうか?ノーです。」(前エントリより)

この箇所は(おそらくはからずも)任天堂ゲーの本質をうまく捕まえている。

・「大作にはほとんど常に存在している要素」がない
・逆に「素晴らしいレベルデザイン、操作性、イマジネーション、創造性」がある


普通なら大作を大作たらしめている何かに投じる予算を、「レベルデザイン、操作性、イマジネーション、創造性」につぎ込む。その予算で「レベルデザイン、操作性、イマジネーション、創造性」のクオリティを徹底して向上させる。いわゆる大作とは全く正反対に突き抜けたコンセプト。これこそが任天堂ゲーの魔法のタネだ。

しばしば言われる任天堂ゲーのマンネリさとは、要するにクオリティへの極振りの裏返しだ。「レベルデザイン、操作性、イマジネーション、創造性」におけるクオリティ以外はどうでもいいと言わんばかりの、いわばクオリティへの傾斜がもっとも極まったカタチだ。優れて日本的というか職人的というか。パッと見こそ似ていても、任天堂ゲーはその点で欧米インディとは本質的に全く異なるものだと思う。


あとこれは魔法のタネの半分であり、もう半分は任天堂の特殊なユーザ事情だ。

それはつまり、大量のライトなユーザを囲い込んでいたことだ。マリオ一本でそこそこ満足してくれるユーザこそが、上で述べたような任天堂ゲーの魔法を可能にしている。コアな層しかいなければ、彼らはコンテンツを高速で消費してしまうことから、こうした魔法は使えない。(つまり新しいコンテンツを次々に投入する必要がある。そうなると予算はフレーバーに偏らざるを得ないし、クオリティに使える予算はその分少なくなる)


任天堂にとって非常に大きな悩みはモバイルとチープなゲームに切り崩されて、大量のライトなユーザという前提条件が崩れかかっていることだろう。魔法の二つの発動条件は任天堂ゲーの両輪であって、片方が失われればもう片方の維持も難しい。



・・・あまり伝わらないかもしれないが、ちょっとばかり言いたかったことだったので書いてみた。
後悔はしていない。

・・・いや、もうちょっと整理してみるつもりではあります。