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筆者

D. みと


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集団属性と個人能力評価の違いを混同する差別主義 #とは #定期 #戦争 #平和 #心理学 #哲学

 

集団代名詞に対する確証バイアス型の演繹的錯覚構造

 

 

よくある会話のパターン

 

「目の前にいる誰誰は何々国家、民族の人できっと優秀な人だ、それ以外の国家民族の人は差別すべきだ」

 

この考え方の根本間違い。

 

>>「誰誰は何々国家、民族の人できっと優秀な人だ」

 

この会話の部分は、目の前の人の集団属性を、国家民族で分類するやり方で認識した後、その目の前の人と共通する集団属性の他人の業績や能力評価、歴史的事実を考えて、その他人と同一の集団属性だから、目の前の人も優秀であろう、という、個人能力の推論の形だが、これは

個人能力評価と他人の能力評価、集団の属性上の共通性を混同した錯覚のパターンである。

 

個人の能力はたとえ集団属性、国家民族が同じでも人それぞれの為違うし、同じ国家民族であっても他人とは別の他人が優秀であるとは限らない。

集団属性が同じなら他人の能力実績評価が共通しているはずだという誤解と錯覚である。

 

 

>>「それ以外の国家民族の人は差別すべきだ」

 

この部分も、たとえ国家民族という集団属性が違ったからと言って、差別や暴力を肯定していいという理由にはならない。

 

何より、差別する側もされる側も、集団属性の国家民族の個人の直接認知数は、せいぜい数百人くらいで、その国家民族の人々の1パーセントも知らないのに、ある集団属性範囲の全ての国家民族の所属の人が上で、それ以外の人が下で、差別していい、という理由にはならない、知りもしないものを理由に、知りもしない他の集団属性を比べ暴力をしていいという理由にはならない。

 

要は差別主義の自己正当化とは、屁理屈なのである。

差別主義者は区別を利用し差別を正当化するが、それは錯覚であり思考の誤作動なのである。

 

つまり、差別と暴力のこのような錯覚の構造が、世界の戦争を深刻化させている。

 

この認識の誤りの訂正自体が、世界から戦争の発生を収めていくことになる。

 

これを集団代名詞に対する確証バイアス型の演繹的錯覚構造という。