元和二年(1616) 4月17日 

徳川家康 が死去したのは 今から約400年前の今日です。



死因は諸説ありますが
徳川家の正式記録書 『徳川実紀』 によると


4月4日頃 大御所はとかく御絶食にて御疲労つよく、御みずからも此度は
不起の御症と思召とらせ給ひ

とあり さらに

見る間に痩せてゆき吐血、黒い便、手で触れるほどの腹にできた大きなしこりを
確認しておりこの病状からすると

胃がん説が有力とされています。



遺言は

まず国家に大事あらば 藤堂和泉守高虎と井伊掃部頭直孝をもって軍備を整えるべし と

次に金地院崇伝、南光坊大僧正天海、本多上野介正純に対し
我が亡骸は久能山へ納め、法要は増上寺にて行え。霊牌は大樹寺へ。
御周忌の後日光山へ小堂を造営し祭れ  と遺言してます。



この時点で大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし天下統一がなったかに見えますが
二代秀忠以下全国の統治はまだまだ磐石では
なかったようです。

三代家光の頃の島原の乱
四代家綱の頃の慶安の変

などを征し江戸幕府創立より50年ぐらい経た後
200年以上も続く幕藩体制が確立していきました。


今、我々が住んでいる世界都市 東京の基礎が
家康によってもたらされたことを考えると
とてつもなく壮大な夢物語を語りそして
作り上げた大恩人になりますね。



合掌







---以下 徳川実記より抜粋---


四月朔日  大御所御病床に堀丹後守直寄を召て。此度の老病とても快復すべきにあらず。我なからん後。國家に於て一大事あらんには。一番の先手藤堂和泉 守。二番は井伊掃部頭に命じ置ぬ。汝は兩陣の間に備を立て。橫鑓を入べしと命ぜらる。

~中略~

二日金地院崇傳。南光坊大僧正天海幷に本多上野介正純を。  大御所御病床に召て。御大 漸の後は久能山に納め奉り。御法會は江戶增上寺にて行はれ。  靈牌は三州大樹寺に置れ。御周忌終て後下野の國日光山へ小堂を營造して祭奠すべし。京都に は南禪寺中金地院へ小堂をいとなみ。所司代はじめ武家の輩進拜せしむべしと命ぜらる。

~中略~


大樹天下の政を統領すれば。我な からん後の事。更に憂とせず。たゞし  大樹の政務ひが事あらんには。各かはりて天下の事はからふべし。天下は一人の天下にあらず。天下は天下の天下なれ ば。吾これをうらみず。是により各に暇給へば。一先封地にかへり。  大樹の令を待て來るべしと面命有て。各もの賜ふ。また  御所には天下の政に於て。 いさゝか不道あるべからず。諸國の大名共へ  大樹の政治ひが事あらば。各かはりて。政抦を取べしと遺言しぬ。もし又諸國の大名  大樹の命にそむき。參 覲に怠るものあらんには。一門世臣といふとも。すみやかた兵を發し。