浅間山 噴火

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 天明三年(1783) 7月6日


浅間山が噴火しました 


4日未明、地鳴りとともにいわゆる火山性地震が始まり

6日朝、ついに噴火が始まる。
噴き上げたどす黒い噴煙は上空2万mにまで達し(成層圏)上野国のみならず周囲三十里四方(約120km)に火山岩などを飛散させ、江戸の町にも火山灰や噴煙で覆われるほどに甚大な被害をもたらしたようである。

8日、ようやく落ち着いたかに見えたが一転、強烈な地鳴りと共に大量の火砕流が時速360kmとも言われる速度で浅間山北麓の鎌原地区を襲う。
火砕流発生からほんの十数分で597人いた村びとの約80%の466人を飲み込み最も多くの被害を出した。
噴出した火砕流は一億立方メートルにも及び被害者総数は千五百人にも及ぶと言われる。


昭和になり「日本のポンペイ」と言われる鎌原村の発掘調査時に
当時高台にあった観音堂に逃げ込もうとして間に合わず焼け死んだ重なり合った女性の白骨遺体を発見。

調査を進めると

一人は腰の曲がった60代女性、もう一人はその女性を背負っていたであろう20代女性。二人のDNAは別人だったそうなので調査団は「腰の曲がった義母を背負い50段ある観音堂の階段途中で火砕流の速度に間に合わず飲み込まれたのでは?」と推測。

ここに関しては瞬時に飲み込まれたためポンペイ遺跡と同じように当時の遺構を残しているがほとんどの場合数メートルにも及ぶ巨岩を含む火砕流と吾妻川の氾濫による土石流により人馬などの遺体は引きちぎられ散乱していたと言う。

この噴火は十月末まで続き日照不足と天候不良を引き起こし
その後、東北地方を中心に大凶作となり約数十万人の餓死者を出したと言われる「天明の大飢饉」に繋がる。
杉田玄白の著書で
「生きるものは餓死者の遺体を切って食べ、あるいはそれを草葉と混ぜ、犬肉と言って売るものまでいる」と書いている。

なんとも地獄絵図である……
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嘉祥

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毎年 6月16日は 嘉祥 です



これは江戸時代の幕臣にとって大切な行事の一つであり
古くは平安初期より始まり厄除けの為に神に供えた菓子や餅を食べる宮中儀式を踏襲し江戸城大広間で約2万個にもおよぶ菓子や餅などを諸大名や幕臣に下賜した。


江戸時代が終わるとともにこの行事はなくなったが

昭和になり全国和菓子協会により「和菓子の日」に定められ形を変え現在に至る。





※参考画像 国立国会図書館デジタルコレクション

「千代田之御表 六月十六日嘉祥之図」
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山王祭

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江戸時代 隔年の 6月15日は

赤坂 日枝神社の山王祭が行なわれました。



山王祭は

神田祭・深川八幡祭とともに「江戸三大祭り」とされ1300年もの長きにわたり庶民に愛され続けてきた。特に江戸期において徳川将軍家の産土神とされ手厚い保護を受けるようになる。

また、元和元年(1615)には将軍が上覧するために半蔵門から山車の入城が許され神田祭とともに「天下祭」とも呼ばれた。

祭りは毎年盛大になり経費が負担になってきたことと倹約令などの理由で天和元年(1681)より神田祭との隔年開催となり一部 幕府より補助金が出たという。以後まつりが行なわれる年を「本祭」、行なわれない年を「陰祭」という。

祭りのメインとなる神幸祭は
狩衣・直垂・黄衣・白丁等の公家装束を着た氏子などが江戸の町を巡幸する。

今年平成26年の神幸祭は6月13日に開催され来年には神田祭が4年ぶりに開催される。


元々日枝神社は

武蔵野の地を開拓するにあたり江戸氏が守護として山王宮を祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌公が江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請したのを礎とする。

やがて江戸期に入り明暦三年(1657)の明暦の大火で社殿が焼失した際に現在の場所(溜池山王)に移転造営され今日に至る。




日枝神社のHPを参考にさせていただきました
http://www.tenkamatsuri.jp/index.html



※ 参考画像 国立国会図書館デジタルコレクション

歌川 国芳 画 「山王祭之図」
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池田屋事件

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元治元年 (1864) 6月5日 夜四つ頃 京都 三条小橋 旅籠 池田屋において

会津藩預かり新撰組と長州藩士を中心とした尊皇攘夷志士が斬りがあった。

池田屋事件です。



~経緯~

文久三年(1863)の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩や他藩(肥後、土佐など)尊皇攘夷派志士は再び朝廷での復権を画策していた。


兼ねてより京都市中で尊攘派の情報活動や武器調達などを行なっていた古高俊太郎(枡屋喜右衛門)や宮部鼎蔵は極秘裏のうちに尊攘派志士らを匿い計画実行に向け話し合いを重ねていた。


かねてより京都市中警護を任されていた新撰組は不穏な動きを察知し警護を強化。そんな折、京都河原町四条上ル東で諸藩御用達・枡屋を探索したところ無数の武器弾薬を発見。即刻枡屋主人喜右衛門こと古高俊太郎を壬生屯所へ連行。副長土方の拷問により恐ろしい計画が露呈する。

その計画とは

「強風の日に市中に火をかけその混乱に乗じて天子様を連れ去る」という無謀ともいえる計画であった。(冤罪であるなど諸説あり)


~概要~

ともかくも、情報網を駆使し元治元年6月5日になんらかの会合がもたれるところまで突き止めた新撰組は京都守護職会津藩に協力要請はしたものの時を急いた近藤以下30数名は隊士を二手に分け祇園界隈を探索。

約2時間後、捕らえられた仲間古高の奪還計画を練るため 三条小橋 池田屋に集結していた尊攘派30数名のもと近藤隊10名が到着。数では劣るものの突入を決意。

建物内に突入したのは
局長近藤勇、一番隊隊長沖田総司、二番隊隊長永倉新八、八番隊隊長藤堂平助の4人。

後に土方隊も現着し攻勢にでた新撰組は約2時間の激闘の末、事件の収拾に成功。


激闘前、激闘中のことは小説などで詳しく知られていることが多いが翌日の現場検証の様子などはあまり語られることはない。しかし、当事者である永倉新八が後日談として残した「新撰組顛末記」に事件後の事が詳しく書いてありなにより激闘を物語っている。一説を紹介すると



『 襖障子は一枚としてまともなものはなく、木っ端微塵に打ち壊され天井板はその上に隠れたものがあったのを下から槍で突き上げたからこれも散々に引き裂かれた。階上階下の座敷のいく間は鮮血斑々として畳を染め、こと無残なのは斬りおとされた腕や足が狼藉として散乱し、毛髪のついたままの鬢などが切り殺がれて落ち散っているのであった。』



この事件を機に一躍幕末の表舞台に名を連ねることとなる新撰組だが奇麗事ではない現実がそこにある。


一方、長州勢は来嶋又兵衛ら過激尊攘派を中心として武力をもって汚名を晴らそうと京都に進軍。結果禁門の変がおこり完全に孤立し後の長州征討へと至る。



この事件は単に新撰組においてのサクセスストーリーだけではなく幕末史を語る上でも重要な転換期のひとつであり見る側面によっても賛否両論あるところである。



ちなみに私はこの一点においては 新撰組派である。






※引用文献  永倉新八 著  「新撰組 顛末記」 新人物往来社



ペリー来航

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嘉永六年 (1853) 6月3日

浦賀に4隻の黒船(旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号)が来航しました。


俗に言う「黒船来航」により幕府は慌てふためいたようにように思われるが事実はチョット違っている。

いわゆる鎖国状態の日本にはペリー以前にも外国船は頻繁に来ており、ましてアメリカに関してはさかのぼること7年前の弘化三年(1846)に東インド会社司令長官ビッドルが二隻の黒船で浦賀に来ている。ましてペリーに至っては通商のあったオランダから前年(嘉永五年)の報告で来航目的など詳細を把握しており海防担当の浦賀奉行などに対応策を講じてあった。
しかし、想像以上に武力を背景にした砲艦外交に一度は親書を受け取り時間を引き伸ばそうと画策した結果、翌 嘉永七年 3月3日 幕府は林大学頭らを交渉役に抜擢し難航の末「日米和親条約」を締結することになる。

内容は

・下田、函館の開港
・薪水、食料、石炭などの補給
・難破船、漂流民の保護
・アメリカに対して最恵国待遇※1を与える

というものであった。

怒号し強引に調印迫るアメリカ側に対し大学頭らは
「親書を携え友好関係を結ぼうとする相手を威圧するとは何事か!」と制し
その来然とした態度にアメリカサイドも軟化を示し双方の妥協点を見出している。
最恵国待遇を与えたことに関しては後々日本を苦しめることとなるが
当初アメリカが目論んでいた通商に関しては見事に突っぱねている点は見事な外交手腕であったといえる。



幕末史を語る上で新政府側が優れ幕臣には無能者しかいなかったように言われるが
この一場面を見てもわかる通り有能な人材は埋れており、260年続いた「幕府」というしがらみの中で最大限の働きをしても正しく後世に伝えられていないことが多かった。近年やっと「敗者から見た歴史」が見直されるようになり双方から見た歴史がさらに面白くなって来ている。



※1 最恵国待遇・・・・他国と日本とで結んだ条約はアメリカにも有効とするもの。
この後、 イギリス、ロシア、オランダと和親条約を結ぶこととなる。
ついで、安政五年(1858) 6月19日に日米修好通商条約を結び実質的な開国となった。


大川 川開き

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毎年 5月28日

両国大川(隅田川) で夏の始まりを告げる 川開き が行なわれました。

8月28日までの毎日、納涼船が数多く出たと言う。
特に 享保十八年 (1733)の川開き以降は
前年の享保十七年に起こった「享保の大飢饉」の被害者の鎮魂の意味も込めた
慰霊祭(水神祭)で八代将軍吉宗により両国大川での花火の打ち上げが許可された。


花火師は両国橋より上流に「玉屋市郎兵衛」、下流に「鍵屋弥兵衛」が位置し
庶民は掛け声を掛け熱狂した。

享保以前にも納涼船の他にも冷水、冷麦、餅などを売る商売船が出ていてその中には玩具花火を売る船もあり客の要望に応じて川面で打ち上げたという。

それら商売船を「うろうろ船」という。


現代まで続く隅田川の花火大会には約300年の歴史があり、しかも鍵屋は今でも花火を打ち上げ続けている。

技術が進化し花火を打ち上げる本来の意味も江戸時代とは多少変わってきてはいるが今も昔も庶民が熱狂するものであることは変わりない。




寛政異学の禁

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寛政二年 (1796) 5月24日

寛政異学の禁が発令されました。


これは時の老中 松平定信 によって推し進められた
寛政の改革 の一部で幕府の正式な学問所は
昌平黌(昌平坂学問所、湯島聖堂) としそこで教壇に立つ林家一門や儒者は朱子学以外は
扱ってはいけない というもの。



江戸幕府創成期において家康は林羅山をブレーンとして登用したことで朱子学を主とした武士教育を行なっていたが時代が下り平和になるにつれ文化が盛んになり朱子学以外の学問(異学※1)が世に出始めた。その中のいくつかが朱子学を否定するものだったり発展したものであったため、幕府は教育を一本化して封建制度の強化と維持を図った。ただし、禁じたのは昌平黌内で教授することを限定したことであって各地の藩校や庶民の学ぶ学問についてはあまり強制力はなかったようである。


そもそも昌平黌では町民にも聴講が許されていた(仰高門日講)と幕臣に講義が行なわれた(奥座敷講釈)があり五代将軍綱吉以降幕府の官校として機能していた。そこで幕府中枢の人材登用策として幕臣に対し「素読吟味」と「学問吟味」という入学試験を設け出世の見込めなかった身分の低い幕臣たちにもキャリア組になりうる道を作った。素読吟味は四書五経※2の一説を暗唱する口答試験で学問吟味は筆記試験で四書五経の内容解釈、使用語句の説明、書籍の引用を交えた考察などを行った。合格者の中には狂歌を広めた太田南畝や遠山影晋(金さんのお父さん)などを輩出した。





※1 異学・・・・・古文辞学・陽明学・聖学・古義学・国学など

※2 四書五経・・・四書(論語・大学・孟子・中庸)
          五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)




※左は現在の湯島聖堂、右は歌川広重の江戸名所百景 昌平橋聖堂神田川

曽根崎心中 初演

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元禄十六年(1763) 5月7日

大阪 道頓堀の竹本座において 
近松門左衛門作 浄瑠璃 曽根崎心中の初演が行なわれました。



江戸時代に始まったとされる浄瑠璃や歌舞伎の演目の多くは
実際の事件を元としてつくられるものもあった。


特に歌舞伎は最新の話題をいち早く演目として取り入れ、言わば現代のニュースのライブ映像として伝えるという役割も兼ね人気を博していた一方、経営不振であった竹本座の竹本義太夫は「こうした手法を取り入れ集客を見込みたい」と考え近松に相談し、できたのが「曽根崎心中」とされる。


実際の事件は約一ヶ月前の元禄十六年 4月7日
遊女お初と醤油屋手代徳衛門の心中を元とする。


この作品のヒットにより竹本座の経営は安定し以後多くの心中物が創出されろこととなり影響を受けたものが心中するという社会現象となったため幕府は20年後の享保八年 心中などを取り上げた作品などの上演禁止や出版統制と心中した者への極刑を決める


近松自身も曽根崎心中以後 世話物と呼ばれるジャンルの中で心中物を数点執筆するが
禁止以降は時代物を多く残す。


近松門左衛門作 心中物

*曽根崎心中    元禄十六年(1703)
*心中二枚絵草紙  宝永三年 (1706)
*卯月紅葉     同上
*卯月潤色     宝永四年 (1707)
*心中重井筒    同上
*心中刃は氷の朔日 宝永六年 (1709)
*心中万年草    宝永七年 (1710)
*今宮の心中    正徳元年 (1711)
*生玉心中     正徳五年 (1715)
*心中天の網島   享保五年 (1720)
*心中宵庚申    享保七年 (1722)





こちらのサイトを参考にさせていただきました。

近松門左衛門と人形浄瑠璃の奇跡




義太夫 曽根崎心中が視聴できます(7net)

http://www.7netshopping.jp/cd/detail/-/accd/C0185180

寺田屋事件

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文久2年(1862) 4月23日 夜四つ(午後10時過ぎ)

伏見の寺田屋で薩摩藩士同士による斬り合いがありました。

世に言う”寺田屋事件”が起きたのが約150年前の今日です。(チョット早いけど)



事件の概要


200年余り鎖国下にあった日本に
嘉永6年、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えペリーが浦賀に来航。
幕府のみならず国内全土は騒然とする。


開国 か 攘夷※1(外国を打ち払う)か ・・・


その中で薩摩藩の方針は 攘夷 であったが 
あくまでも11代藩主 島津斉彬、また意思を継いだ形の久光など上層部はこの時点では公武合体論が主であった。

一方、下級藩士の一部は水戸藩などから起きた
「夷敵うつべし!」と言う過激な攘夷思想が広まっていた。

生ぬるい対外政策に業を煮やした有馬新七を中心とする過激攘夷派20数名は京都所司代邸などを襲撃するために伏見寺田屋に集結。一気に攘夷への機運を高めようとしていた。

一方、公武合体を推し進めようとしている国父 久光は 自分の意に背き暴発行動をとる有馬らの粛清に踏み切る。
討手に選ばれたのは暴発組とは同志・同腹の奈良原喜八郎ら9名。

奈良原らが決死の覚悟で寺田屋に突入し暴発を思いとどめさせようと説得するが失敗。
勤皇の同志であり友である双方が殺しあうと言う悲劇が起きてしまった。

激闘の末、最後を悟った有馬新七は討手側 道島五郎兵衛を力任せに抱き抱え壁に押し当て暴発組の橋口吉之丞へ向かい「オイごと刺せっ!!」と叫んだと言う。

中心的存在の有馬の死から前後して双方とも死傷者多数の後必死の説得によりようやく沈静化した。



事件後、公武合体の意見書を幕府に提出するため江戸に向かった久光であったが何の成果も上げられず帰国の途につく。

途中、武蔵国生麦村(現神奈川県鶴見区)において行列を横切ったとして英国人を無礼討ち(生麦事件)。その後薩英戦争へと発展したことを思うと寺田屋事件は単なる暴発とはいえなかったように思う。



この時点では幕末維新にはまだ時が熟しておらず維新の中心となった薩摩、長州、土佐でさえ藩上層部と改革を望む下級藩士の間には思想の隔たりがあり
”倒幕””攘夷”と藩内を思想統一するまでには多くの犠牲を払うことになる。





※写真は現在の寺田屋




※1・・・ここでいう攘夷とは2派に分かれる。朝廷と幕府が力をあわせて攘夷を行う・公武合体派と幕府に頼らず天皇を奉り親兵となって攘夷を行う・尊皇攘夷派

徳川家康 死去

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元和二年(1616) 4月17日 

徳川家康 が死去したのは 今から約400年前の今日です。



死因は諸説ありますが
徳川家の正式記録書 『徳川実紀』 によると


4月4日頃 大御所はとかく御絶食にて御疲労つよく、御みずからも此度は
不起の御症と思召とらせ給ひ

とあり さらに

見る間に痩せてゆき吐血、黒い便、手で触れるほどの腹にできた大きなしこりを
確認しておりこの病状からすると

胃がん説が有力とされています。



遺言は

まず国家に大事あらば 藤堂和泉守高虎と井伊掃部頭直孝をもって軍備を整えるべし と

次に金地院崇伝、南光坊大僧正天海、本多上野介正純に対し
我が亡骸は久能山へ納め、法要は増上寺にて行え。霊牌は大樹寺へ。
御周忌の後日光山へ小堂を造営し祭れ  と遺言してます。



この時点で大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし天下統一がなったかに見えますが
二代秀忠以下全国の統治はまだまだ磐石では
なかったようです。

三代家光の頃の島原の乱
四代家綱の頃の慶安の変

などを征し江戸幕府創立より50年ぐらい経た後
200年以上も続く幕藩体制が確立していきました。


今、我々が住んでいる世界都市 東京の基礎が
家康によってもたらされたことを考えると
とてつもなく壮大な夢物語を語りそして
作り上げた大恩人になりますね。



合掌







---以下 徳川実記より抜粋---


四月朔日  大御所御病床に堀丹後守直寄を召て。此度の老病とても快復すべきにあらず。我なからん後。國家に於て一大事あらんには。一番の先手藤堂和泉 守。二番は井伊掃部頭に命じ置ぬ。汝は兩陣の間に備を立て。橫鑓を入べしと命ぜらる。

~中略~

二日金地院崇傳。南光坊大僧正天海幷に本多上野介正純を。  大御所御病床に召て。御大 漸の後は久能山に納め奉り。御法會は江戶增上寺にて行はれ。  靈牌は三州大樹寺に置れ。御周忌終て後下野の國日光山へ小堂を營造して祭奠すべし。京都に は南禪寺中金地院へ小堂をいとなみ。所司代はじめ武家の輩進拜せしむべしと命ぜらる。

~中略~


大樹天下の政を統領すれば。我な からん後の事。更に憂とせず。たゞし  大樹の政務ひが事あらんには。各かはりて天下の事はからふべし。天下は一人の天下にあらず。天下は天下の天下なれ ば。吾これをうらみず。是により各に暇給へば。一先封地にかへり。  大樹の令を待て來るべしと面命有て。各もの賜ふ。また  御所には天下の政に於て。 いさゝか不道あるべからず。諸國の大名共へ  大樹の政治ひが事あらば。各かはりて。政抦を取べしと遺言しぬ。もし又諸國の大名  大樹の命にそむき。參 覲に怠るものあらんには。一門世臣といふとも。すみやかた兵を發し。