各務原空襲 墜落した米軍戦闘機の調査
調査報告
大戦末期に各務原飛行場に撃墜されたとされる米軍機の調査を昨年末より行っていました。
最初に、かって発行された「稲羽東小学校100年史」や「各務原市民の戦時記録」「各務原高射砲隊顛末記」等には
昭和20年6月9日お昼少し前に高射砲により「グラマン」を撃墜したとの記載があります。
その後米軍の記録を調べました。当時硫黄島に展開していた「アメリカ陸軍航空軍第7戦闘機集団」の
サイトの戦闘記録1945年7月19日分にジュリアン E .トーマス中佐が各務原飛行場への攻撃中に急降下で翼が崩壊したとの記述が見つかりました。
更にジェームス B .タップス少佐著「第7戦闘機指揮履歴」に彼の航空機は各務原飛行場に対する非常に高速での機銃掃射中に翼が崩壊し彼は殺されたとの記述もありました。
更に、「アメリカ国立公文書記録管理局」NARAの資料の中に行方不明搭乗員レポートがあり、膨大な資料の中からトマース中佐の記載を発見した。
ミッシング エアー クルー レポート(行方不明搭乗員レポート)
NO2 目標は各務原、ミッションは戦闘機掃討と記載されている
NO4 日付は1945年7月19日 9時20分 ロケーションは各務原飛行場とある
NO5 圧縮性の急降下に耐えられなくて崩壊したとの記載が
NO17 には 僚機である ウイリアム H.スパークス中尉の目撃情報記載されている
トーマス中佐は急降下中に 「Sスプリット ターン」を行い機体が崩壊したとある。
なお、6月9日の第7戦闘l機集団の戦闘記録には各務原飛行場の攻撃記録はあるが撃墜された記録はありません。
またグラマン戦闘機を搭載していた空母16隻の記録を調査しましたがまだ活動範囲がフィリピン、台湾、沖縄、九州、四国、瀬戸内海地区であり、各務原飛行場の攻撃記録は見つかっておりません。
墜落機のデータ
1945年7月19日9時20分 ジュリアン E.トーマス中佐(27才) アメリカ陸軍航空軍第7戦闘機集団第15戦闘機群司令部所属(硫黄島)P51
墜落原因は急降下時における、Sスプリット ターンにより発生したマイナスの負圧。
急降下に起因する翼の崩壊。
硫黄島からの日本本土の攻撃
P51戦闘機は単発単座の戦闘機のため、東京や名古屋は1200km程の距離があり、侵入時はB29爆撃機がナビゲーターをしている。
B29に先導されて飛行中のP51マスタング戦闘機 4機ごとに編隊を組んでいる
硫黄島の基地に駐機中のP51戦闘機 奥に写っているのがB29爆撃機
12.7mm機銃弾を搭載中のP51ムスタング 6本のM2機関銃におよそ1800発を搭載
翼の下は落下式燃料タンク
米軍の救助体制 日本列島に侵入するにあたって、万全の救助体制が組まれており
航空機、水陸両用機、水上艦艇、潜水艦等を配置しています。
実際に多くの救助映像が残っております。
潜水艦テグロンに救助されるP51パイロット 彼は一人乗りのゴムボートで待っていたようで装備の充実には驚きます。
(この潜水艦は一航海で30名以上を救助したこともあると書かれている)
墜落地点のマーカー上空を低空飛行飛行するB17爆撃機を改造した救難機。(食料や救難物資を投下)
(硫黄島と日本列島間)
第7戦闘機集団のHPにあるトーマス中佐のサイト
1917年9月25日アイダホ州ミニドカ郡ルパート生まれ
死亡 1945年7月19日(27才)
お墓 カルフォルニア州サンマテオ郡サンブルーノ
ゴールデンゲート国立墓地
アメリカ陸軍航空軍第7戦闘機集団 第15戦闘機群司令部所属(硫黄島)
写真は第7戦闘機集団HPと公文書記録管理局NARAより
2020年3月27日の岐阜新聞
2020年4月4日の中日新聞