各務原空襲Ⅰ
写真から知る各務原空襲(昭和20年6月22日、26日)
B29爆撃機から撮影された写真から各務原空襲を知ります。
爆撃写真は全て上が東でB29の進行方向で、
西方から進入して東方に退避しました。写真①~⑤
(時間、高度、重量は日本表記としました)
写真①(22日爆撃中)
この写真は昭和20年6月22日9時23分高度5500mからB29の機体後部に
搭載されたK20型カメラにより撮影されたものです。
この日、各務原に飛来したB29爆撃機は飛行場周辺の
川崎航空機工業、三菱重工業を中心に爆撃しました。
第1派はテニアン島基地から出撃した17機が9時16分~9時18分の間に
2トン爆弾を90トンを三菱重工各務原工場に投下しました。
第2派もテニアン島基地から出撃した21機が9時19分~9時23分の間に
2トンと1トン爆弾を合計144トンを川崎航空機工業に投下しました、
時間にしてわずか7分間の出来事でした。
写真①は第2派の爆撃機が撮影したもので、先発隊の投下した
爆煙に覆われていますが左側の上下の白線は蘇原街道、横線は関街道、
蛇行する境川も確認できます。中心の爆煙は川崎航空機北工場付近で
写真上の爆煙は各務山付近で現在の蘇原中央町です。
〇印の中に大型爆弾の爆発閃光が写り込んでいます。
名鉄電車線の南で大型機の飛行場搬入通路の直ぐ東です。
戦後撮影された米軍航空写真では直径20mほどのクレーターがみられます。
この写真には赤星山の防空壕が破壊された直後の爆煙が写っています。
この防空壕では多くの方が亡くなっています。一部の書物では狙って爆撃されたとの記述が書かれていますが米軍がこの地区に地下施設があって攻撃対象としていたのならLC爆弾やGP爆弾ではなく別の爆弾を複数投下したでしょう。これはすぐ近くの工場を狙ったが外れたものだと思われます。これ以外にもすぐ南側に外れた爆弾で出来たクレーターが複数ありました。
写真②(爆撃4時間後)
この写真は6月22日13時39分に高度8000mから撮影されたものです。
(撮影 第21爆撃兵団 司令部グアム島)
爆撃後をわずか4時間後にその成果を確認するために飛来したものです。
〇印の中は蘇原東島池で白く写った雲の下は各務山です。
当日の天候の雲量は50%前後と記録されており、黒く写っている部分は
日陰になっていた地上です。
写真③(爆撃4時間後)
この写真も6月22日13時39分に撮影されたものです。
画面、上の黒く写っている建物は川崎航空機北工場の
大型機組み立て工場です。
東の建物は損傷が激しく、西側の建物も損壊がみられます。
右側に国道21号線と名鉄電車線が写っていますが、
三柿野駅北側と南側は特に激しく破壊されているようにみられます。
線路がアメのように曲がっていたとの証言があります。
当日駅に勤務していて、近くの防空壕で難を逃れた職員さんは線路南側にあった対空機関砲陣地が爆撃後には跡形もなく吹き飛んでいたと証言もされています。
川崎航空機中工場付近の建物も損傷が激しかったことが分かります。
また飛行場と北工場を繋ぐ連絡通路付近の線路上には
大型爆弾で出来た損傷がみられます。
この2枚の写真は撮影時間と高度からB29爆撃機を改造した
F13型偵察機による撮影と思われます。
この時撮影された写真から建物の破壊状態を詳しく調べ、
26日の爆撃計画が練られました。
26日の爆撃では大型の2トンや1トン爆弾が使用されなかったのは
この写真から得られた情報で、ほぼ目的を達成したと考え、
残存する工場群には250㎏爆弾を多量に投下する作戦計画を立てたことが
考えられます。
写真④ (26日爆撃中)
この写真は昭和20年6月26日9時30分 高度4900mで爆撃中のB29から
撮られたものです。この日の第1派は9時12分~9時55分で70機以上の
B29がテニアン島基地から出撃して250㎏爆弾を400トン以上を
三菱航空機及び周辺工場に投弾しました。
第2派は9時26分~10時00分でグアム島基地から出撃した
B29、35機が250㎏爆弾を167トン川崎航空機工業と周辺工場群に投弾しました。
上記の写真には爆煙が写っています。爆煙の下は川崎航空機工業と
陸軍技能者養成所付近と思われます。
中央右側の飛行場主滑走路は不鮮明に写っていますが
大戦末期各務原飛行場主滑走路は迷彩塗装が施されていました。
昭和19年11月23日に撮影された米軍偵察写真には鮮明に写っていますが
昭和20年4月5日陸軍により撮影された写真には迷彩されていますから
この間に塗装が行われたことが分かります。
また、一部の工場屋根も迷彩塗装されていました。
飛行場周辺に造られた掩体壕とそれらを繋ぐ誘導路も写っています。
写真④の〇印の中に22日の大型爆弾で出来たクレーターがみられます。
すぐ西側の技能者養成所に投弾されたものが目標を外れたものです。
写真⑤
こちらの写真も26日の爆撃中に高度4700mから撮影されたもので、
写真④の〇印付近を更に低高度で撮ったものです。
〇印内にクレーターが写っています。右下の破壊された工場は
陸軍技能者養成所で、木造であったため基礎部分が残るのみです。
右上に各務原東飛行場の北西端が写っていますが道路の北側に掩体壕が
造られており小型機が格納されています。
滑走路の隅に大型機がみられますが損傷して掩体壕まで移動出来ないため
放置されたようにみられます。
写真⑥(昭和22年米軍撮影)
写真⑤の昭和22年11月の状態です。
飛行場は畑として開墾が進み、技能者養成所跡地には小屋が立っており
入植が始まっているようです。その後、当該地は住宅地として開発されました。
爆撃で出来たクレーターも少しづつ埋め戻されています。
写真⑦
図面①
こちらの写真⑦と図面①は1945年年7月24日にカーチスルメイ司令官から提出された、
「戦術的任務報告書」に添付されているものです。
黒く塗りつぶした「全壊」から「軽微な破壊」まで建物ごとに色分けされています。
詳細な報告書が添付されており被害がほぼ全域にわたっていたことが分かります。
東島池の近くに三角形をした公園らしき植え込みが2ケ所ありますが、
この中に多くの飛行機が破壊された状態で放置されています。
一部の機体には北側に影が見られる物もあります。
影があるのは飛行機がまだ立っていることを表していますが
損傷の程度は分かりません。
機体は出口に向かって並んでいますから空襲警報で急いで入れたのではなく
駐機場として利用されていたことが分かります。
〇印の中は川崎重工本館ビルで屋上に破壊を示すマークが書き込まれています。
この建物は損傷が激しかった東側は取り省かれ一部2階建てとして修復され、
現在も使用されていますが、耐震性の問題もあり取り壊される予定となっています。
写真⑧ 昭和20年撮影と現在の同一建物
この写真は戦後、米軍調査団が現地調査を行ったおりに撮影したもので、
建物は川崎重工本館ビル北側の鉄骨作りの工場です。
写真⑦の破壊評価報告書では軽微な損壊と報告されていますが
実際は鉄骨の骨組みと屋根の一部が残るのみでほぼ破壊されています。
当時の撮影位置は本館ビル3階屋上で背景は蘇原地区北部の山並みです。
ほぼ同位置で撮りましたが1階低くなっていますから屋根や背景は少し違います。
写真⑨他の写真
調査団は多くのカットを撮影しています。
一部の写真には説明文もあります。
骨組みだけの工場内に残った完成間近の排気タービン付戦闘機。
左脚はなく、台座の上に乗っています。左の翼も支持棒によって支えられています。
右は鵜沼三ツ池町内の神明神社境内にあった飛燕戦闘機のボデー、
右前部の四角い機関砲弾倉取り出し穴と扇型の発動機後部点検扉からキ61飛燕と
分かります。市内各所に分散して保管されていました。
戦後71年 秋
≪参考とした資料≫
・国立国会図書館デジタルアーカイブ占領軍関係
・国土地理院航空写真国土変換アーカイブ
・ 小山仁示訳日本空襲の全容