現在の仕事の忙しさは8月の終わり頃からずっと続いている気がする。納品するとその原稿の内容はあっという間に忘れてしまい、時々「果たしてこれで良いのだろうか?」と思う。
でも忘れなければ新しいものは頭に入らない。自分の脳のキャパシティの限界をつくづく感じるこの頃である。
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以前から人工の「スパ」にはよく行ってたが、近頃は本物の「温泉」に日帰りで行くようになった。私は塩分が強い酸性泉よりはアルカリ泉の少し「ぬるっ」とした泉質が好きである。
短期的なこと、具体的なことを考える場合は寒くて静かなところで独りで考えるのが良いと思うが、中長期的なこと、抽象的なことを考える場合は、露天風呂などに浸かって体は温めつつ頭のみ冷やして考えるのも悪くない。
露天風呂に浸かっていて、ある事象の全く異なる側面が見えたり、思わぬアイデアが浮かんだりしたことがある。独りで酒を飲んでいるときも似たような感覚を感じることがあるが、この場合は「錯覚」や「妄想」であることが多い。
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「飲酒」 陶淵明
結廬在人境 庵(いおり)を結んで人境に在り
而無車馬喧 而(しか)も車馬の喧(かまびす)し無し
問君何能爾 君に問ふ何ぞ能く爾(しか)ると
心遠地自偏 心遠ければ地自(おの)づから偏なり
採菊東籬下 菊を採る東籬の下(もと)
悠然見南山 悠然として南山を見る
山氣日夕佳 山気 日夕に佳(よ)く
飛鳥相與還 飛鳥 相与(とも)に還る
此中有眞意 此の中(うち)真意有り
欲辨已忘言 弁ぜんと欲すれども已(すで)に言を忘る
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(現代語訳)
小さな庵を構えて人里に住んでいるので、車馬の騒音に煩わされることはない。
何故そのようにしていられるのかと人に聞かれるが、心が俗世から離れていると自然とこんな境地に達するものである。
東側の垣根の下で菊の花を採り、南山の悠然とした姿をゆったりと眺めている。
山の佇まいは朝な夕なに美しく、鳥たちが連なって塒(ねぐら)へと帰っていく。
「このような心境の中にこそ人のあるべき真の姿がある」と感じてそれを言葉にしようとしたが、既に何を考えていたのか忘れてしまった。
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推察するに、この詩人は朝な夕な南山(廬山)を眺めながら酒を嗜んでいたようである。風流なことではあるが、私は正月以外は日が昇っている間は酒は飲まないことにしている。なお「菊」は英語で”chrysanthemum”という。