その3(№4220.)から続く

 

今回は、キユニ28、キニ28、キニ58という、キハ40系と共通する広幅車体をもつ郵便荷物輸送車を取り上げます。

これらの車両は、厳密にはキハ40系ではなく、走り装置も後述するようにキハ58系のグリーン車キロ28・キロ58からの発生品を流用していますので、走り装置もキハ40系のそれではありません。

しかし、これら3車種は、高運転台・広幅車体という、キハ40系と共通する車体構造を持っているので、キハ40系の「親戚」に含めてよいのではないかと思い、本連載の中で取り上げることにいたしました。

なお、タイトルの「888両のキセキ」の888両には、これらのグループはカウントしていません。888両とは、キハ40・47・48の総数です。

 

これら3形式の郵便荷物輸送車が登場したのは、以下のような経緯によります。

昭和50(1975)年3月の新幹線博多開業に伴う全国ダイヤ改正以降、幹線系線区の電化が進捗し、また非電化幹線でも急行の特急への格上げが進んだため、キハ58系がだぶつき気味になってきました。普通車のキハ58・28はローカル用に転用し、キハ10系やキハ55系の置き換えに供することができましたが、優等車(グリーン車)のキロ28・キロ58はそうはいきません。客室の仕様だけではなく、キロ28・キロ58が完全な中間車であり、運転台がないことも、転用が難しかった要因と言えます。

そこで、国鉄当局は、これら余剰グリーン車を、当時老朽化が進んでいた気動車の荷物・郵便車及びその合造車の置き換えに有効活用することになりました。当時の荷物・郵便気動車は、キハ55の改造車など一部の例外を除いては旅客車との合造型が大半で、その合造型も、完全新製車のキハユニ26など以外、殆ど改造車でした。しかもその改造車であるキハユニ15・キハユニ16などの種車は、かつての電気式気動車キハ44100やキハ44200などという、キハ10系以前の車両だったため、改造によるダメージと相まって、老朽化も深刻になっていたからです。

ちなみに、余剰の優等車を郵便・荷物車に転用する発想は客車でも見られ、マニ36など、かつての優等車が荷物車や郵便車に改造された事例があります。しかし、こちらは元の車体を維持しつつ改造したもの。そうではなく、車体を新製して余剰グリーン車の走り装置などを再利用するというものです。

このような発想に基づき、昭和53(1978)年から58(1983)年にかけて、キユニ28・キニ28・キニ58という3種の車両が世に出ることになりました。これらのうち、キユニ28とキニ28はキロ28の、キニ58はキロ58の機器をそれぞれ流用したものです。

以下順次形式ごとに見ていきましょう。

 

キユニ28

キロ28の機器流用車で、昭和53年から58年にかけて、グループ最多の28両が落成しました。同車は片運転台車で、運転台寄りが郵便室、連結面が荷物室という、郵便・荷物の合造型であり、同時期のスユニ50とも類似した室内構成となっています。

特筆すべきは、最初に落成した1~6がキハ40系所定の「首都圏色」といわれる朱色の単色塗りではなく、窓回りクリーム・上下朱色のツートンカラーという、従来の一般型気動車の標準色(旧標準色)で登場したこと。その後落成した7以降の車は、キハ40系と同じ「首都圏色」となっています。

なお、この6両が旧標準色で落成した理由について、落成時期が昭和53年の6~7月であり、同年10月の「車両塗色及び表記基準規定」改定前の落成であることとされています。しかし、そうすると、旅客車としてのキハ40系は、前記規定改定前に改定を先取りして朱色一色になったことになります。なぜ旅客車が規定の改定を先取りし、郵便荷物輸送車が改定前の規定を遵守したのか、その差異が生じた理由は、依然謎として残ることになりますが、そのあたりはどうなっているのでしょうか。

 

キニ28

キロ28の機器流用車で、昭和53年から58年にかけて5両が落成しました。片運転台車であることはキユニ28と同じですが、こちらは荷物専用車となっています。郵便荷物合造型のキユニ28が28両を数えたのに対し、純然たる荷物車のキニ28が僅か5両にとどまったのは、やはり郵便荷物合造型のニーズが高かったからでしょう。

キニ28は名古屋に2両、高松に3両配属されました。また、名古屋の車は「のりくら」など、高松の車は「土佐」など、急行列車への併結もあったのは特筆されます。

 

キニ58

キロ58の機器流用車で、昭和53年に3両だけ製造されています。片運転台車であること、荷物輸送専用車であることはキニ28と同じですが、キニ28・キユニ28が1エンジンであるのにたいし、キニ58は2エンジンのハイパワー仕様であることが異なります。同車はこのハイパワーを生かし、常磐線の荷物列車に充当されました。

もともと、常磐線上野口では、取手-藤代間にデッドセクションが存在し、そこから先は交流電化区間になることから、他路線で使用していたような直流用の荷物電車を運用することができなかったこと、交直両用車は製造コストが高く荷物電車には採用できなかったこと、以上の要因により、荷物列車が気動車で運転されてきました。そしてその気動車も、取手までの国電区間で電車の邪魔をしないように、2エンジンのハイパワー仕様の気動車が多く充当されてきました。それがキハ51を改造したキニ55だったり、キハ55を改造したキニ56だったりしたのですが、キニ58の登場により、キニ55が置き換えられました。

ちなみに、キニ55は、改造車ではあるものの、10系気動車の中では最後まで残った形式となっています。

 

これら郵便・荷物輸送車は、思った以上に早く終焉を迎えてしまうことになりました。

その理由は、言うまでもなく「国鉄改革」と、それに伴う合理化による郵便・荷物輸送からの撤退。

最後のキユニ28、キニ28が落成した翌年の昭和59(1984)年には、早くも2月のダイヤ改正で郵便・荷物輸送が縮小され、本来の用途を失って他区所に転ずる車が出るようになりました。さらに、昭和60(1985)年10月に郵便輸送から、翌年10月に荷物輸送から、それぞれ国鉄が撤退したことで、いよいよこの3形式は働く場所を失ってしまいます。

結局、昭和62(1987)年4月の国鉄民営化・JRへの改組までには、この3形式はいずれも除籍されてしまい、JR旅客会社に承継されたものは1両もありませんでした。僅かに、キニ58 1のみが、「碓氷峠鉄道文化むら」で静態保存され、「荷物輸送用気動車」の姿を21世紀の今に伝えています。

 

当時の最新鋭だったキハ40系に比肩する車体構造を有しながら、落成後10年も経たずに用途がなくなってしまった、これら3形式。彼らの寿命を奪ったのは、国鉄の合理化と経営形態の変更という、完全な外的要因です。ということは、彼らの10年にも満たない活躍の歴史そのものが、国鉄からJRへの経営形態変更とその胎動という、歴史的な激動を別の角度から眺めることに他ならないのかもしれません。

改めて、彼らの功績に思いを馳せておきたいところです。

 

その5(№4233.)に続く