その6(№3915.)から続く

 

前回取り上げきれなかった常磐・山陽系統ですが、常磐ではそれまで季節運転の1往復だけだった「ひたち」がこの改正で485系化され、同時に5往復と大幅な増発がなされています(前回⑤)。

それまでの「ひたち」は「いなほ」のキハ80系の間合い運用の1往復しかなく、しかも冬季の遅延や運休を考慮して、毎日運転ではない季節列車の扱いでした。「ひたち」は、当時の上野-平(現いわき)間は電化が完成していたにもかかわらず、全区間架線の下を行く気動車特急でもありました。

それが、晴れて485系に置き換えられ、同時に5往復となりました。もっとも、「ひたち」にはクロ481組込みの9連も入りましたが、これは磐越西線へ乗り入れる「あいづ」と運用を共通化したから。「あいづ」運転終了まで見られた「ひたち」との関係ですが、このころから始まっていることになります。

 

以上は東の485系ですが、西の485系の躍進も見られました(前回⑤⑥⑦)。

北陸系統の「雷鳥」「しらさぎ」「北越」(大阪・金沢-新潟)の増発は勿論、山陽系統でも「つばめ」などの増発がなされました。勿論、貫通型先頭車となった200番代も向日町に配属され、山陽~九州や北陸にあの端正なマスクを見せるようになっています。

中でも、このころのトピックは、全区間直流電化区間となる「しおじ」「はと」の運用を、「しおじ」1往復の583系を除き、485系が全て手中に収めたこと(翌年5月に実現)。これは、181系を上越・信越・中央といった他系統の列車に充当させるためと、予備車を減らして車両運用を効率化するためですが、実は車両の整備・検査の都合でもありました。

というのは、当時485系の「つばめ」「はと」充当編成で、岡山での夜間滞泊となる編成はなく、全て向日町か下関、又は南福岡・川尻(熊本)など九州の基地で滞泊するようになっていました。これは、岡山での新幹線と在来線との乗り継ぎが暫定的なものとされたため、岡山に本格的な車両整備のための体制を作ることができなかったからだとされています。そのため、驚くべきことに、岡山では折返しの車内整備すらせず、座席も転回させないまま折り返していたという話もあります。その理由は、少ない人員が新幹線の折り返し整備に取られていて、在来線に回す人員がなかったからだとされています。

それなら増員して対処すれば…と思いますが、数年後には中間駅になることが分かり切っている岡山にそこまで人員を割くことはできませんし、当時はかなり国鉄の財政赤字が深刻になってきていたこと、また労使関係が悪化していたことなどで、思うに任せなかったのでしょう。現在の目で見て当時を批判することは、厳に慎みたいものです。

 

少々長くなりました。

このように、西の485系が岡山で満足な整備ができないことから、下関が基地としてクローズアップされてくることになったわけです。下関であれば人員も体制も整っていますから、そこで整備を行い、必要なときには検査も受けられるようにすれば、車両の管理上好都合でした。全区間直流にもかかわらず「はと」「しおじ」が485系化されたのは、予備車の共通化による効率化のほかに、そのような理由もあったのでしょう。

ちなみに、当時の「つばめ」には、岡山を早朝に出る下り列車と、岡山に夜遅く到着する上り列車に485系が充当されていましたから、もしかしたらここまで読んで来られた方の中には、「岡山滞泊はあったのでは?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。かくいう管理人も、以前はそう思っていました。しかし、ある文献によると、実際には、岡山と向日町運転所との間に、何と回送列車が運転されていたということです。大阪発着は深夜・早朝になるものの、大阪-岡山間を客扱いすれば、それなりに乗客がいたのではないかと思われますが、やはり経費が掛かるらしく実現しませんでした。

 

その後、東の485系は、昭和48(1973)年から青森の編成が初めて「はつかり」に充当されることになり、それまで583系で運転されてきた「はつかり」に、初めて485系が加わることになりました。勿論先頭車は、あの貫通型の200番代。寒い東北の冬を走る列車に、果たして貫通構造の先頭車を充当したのは正しかったのでしょうか。その答えはほどなく出ることになりますが…。

また仙台では、「ひばり」の一部の編成にサロを1両増結して13連となり、青森の「白鳥」と同程度の充実ぶりとなりました。この増結サロは箱型クーラー搭載車の後期型で、両脇を固める初期型のキノコクーラー搭載車とは好対照をなしていました。

 

←上野 TscTsM'MM'MTdM'MTM'MTc 仙台→

 

西の485系も、昭和48年には「つばめ」「はと」「しおじ」「みどり」増発、「なは」(大阪-西鹿児島)電車化がなされ、充当列車がさらに増えました。そしてその翌年には「日向」(大阪-宮崎)電車化により、西は西鹿児島・宮崎、北は新潟、東は上野と、定期列車だけで32日間も連続するという、485系史上最も過酷な運用に就くことになりました。流石にこのような超大型運用は車両に与える負担があまりにも大きく、僅か11か月後の昭和50(1975)年3月のダイヤ改正で解消されています。

なお、昭和48年には、「白山」用の489系が向日町から金沢に移され、「白山」と一部の「雷鳥」を担当するようになります。これで向日町の「癪の種」がひとつ解消されました。

 

昭和49(1974)年には、貫通扉からの隙間風で非難囂々だった先頭車の構造を改め、貫通扉の設置を止めた非貫通型の先頭車・クハ481-300が登場します。この年、「とき」に183系1000番代が登場し、先頭車が房総特急用に投入された同系の0番代車から貫通扉を取り去ったスタイルとなりましたが(クハ183-1000)、クハ481-300はそのクハ183-1000に範をとり、非貫通型としたものです。

なお、300番代に区分されたのは先頭車だけで、その他の車両は以前の車両の続番(モハ484は200・600番代の続番)とされました。489系のクハ489にも、同じような非貫通型のクハ489-300(補助機関車と連結する側はクハ489-700)が登場しています。

このロットからの車両が大きく変わったのは、それまで普通車(←2等車)には回転クロスシートを採用していたものを、やはり先行した183系に範をとって、簡易リクライニングシートに変更したこと。これにより、普通車の快適性がアップした…とはいえますが、実はこの簡易リクライニングシートには、ある致命的な欠陥がありました。

その致命的な欠陥とは、背中に体重をかけている間は背もたれが倒れているのですが、ちょっとでも背中から力を抜くと、背もたれが「バタン!」と大きな音を立てて元に戻ってしまうこと。これではおちおち寝ることも、くつろぐこともできません。

これは、リクライニングのロック機構がなかったのが原因ですが、その後の1000番代などではロック機構を有する仕様に変更され、従来車も順次ロック機構を備えるものに改良され(取り換えではなく改造と思われる)、改善が図られています。

 

次回は、485系の大きな転機となる、昭和50年3月のダイヤ改正をみていくことにします。

 

その8(№3934.)へ続く