その1(№3873.)から続く

 

当初計画から2年の遅れをもって、やっと交直両用の特急型電車、481系が投入されることになりました。

481系は、車種が増え過ぎてしまった151系の苦い経験を踏まえ、先頭車(Tc)クハ481・中間電動車モハ480(M')・481(M)、1等車(Ts)サロ481、食堂車(Td)サシ481の5種類とされました。車体色は国鉄特急制式のワインレッド+クリームのツートン。先頭車は151系譲りの優美なボンネットスタイルで、昭和末期から平成初期の鉄道愛好家を大いに魅了したものですが、登場当時には鉄道趣味界での評判は決して芳しくありませんでした。むしろ「新しい時代にふさわしいデザインが見られなかったのは残念」という評価が多数派だったそうですから、わからないものです。

その他中間電動車、1等車、食堂車も基本的に151系の設計を踏襲していますが、異なるのは床の高さ。これは搭載機器が多かったからで、後年181系からの改造車と連結したときには、車高の高さが目立ってずいぶん不格好に見えたものです。

そして圧巻は、中間電動車モハ480の出で立ち。モハ151同様、パンタグラフを2丁屋根上に搭載していますが、屋根上には碍子など交流対応機器の搭載の必要から、冷房装置の搭載スペースがなく、やむなく客室の一部を潰してそこに冷房装置を搭載しています。この部分には鎧戸状の通風孔が設けられ、屋根上の碍子と相まっていかにもメカニカルな雰囲気を醸し出し、まさに「走る変電所」然とした姿でした。

また、登場当時のクハ481は、ボンネット部分はクリーム色の一色塗りであり、スカート部がワインレッドに塗り込められていて、後年見られた形態とはかなり印象が異なります。

 

で、481系は、第一陣として41両が向日町運転所(当時)に配属されたのですが、充当された列車は「雷鳥」(大阪-富山)と「しらさぎ」(名古屋-富山)。「つばめ」「はと」(いずれも新大阪-博多)には充当されませんでした。しかも実際の充当はダイヤ改正当日ではなく、12月25日から。

「雷鳥」「しらさぎ」の運転開始が遅れたのは、単に車両の落成が間に合わなかったからですが、「つばめ」「はと」に充当されなかった理由は、両列車が当時151系で運転されていたから。東海道新幹線開業で151系は東海道から山陽に活躍の場を移しましたが、ここでいきなり481系を投入してしまうと151系が宙に浮いてしまうことから、「つばめ」「はと」には151系を使ったのでしょう。それともう一つの理由は、当時は交直両用の特急型電車は初登場であり、初期故障の発生が懸念されたこと。そのため、距離の長い山陽~九州の系統にいきなり充当するよりも、短い北陸への系統へ充当して走り込んだ方よいと当局が判断したことにもよります。

あともうひとつ推測できる下世話な理由は、当局がこのころ、北陸への電車特急の登場を大々的にアナウンスしていたから。地元にさんざん期待を持たせた手前、当局は新造した481系を「雷鳥」「しらさぎ」に充当せざるを得なかったという話もあります。

その481系の編成内容ですが、電動車3ユニットに1等車2両、食堂車1両を組み込んだ11連。

 

←大阪 TcM'MTsTsTdM'MM'MTc →富山・名古屋 (『しらさぎ』は米原で方向転換)

 

計画では1等車を3両組み込んだ12連だったそうですが、北陸系統ではそこまでの優等車の需要はないということで、とりあえず2両とされました。

「雷鳥」「しらさぎ」は好評を博し、481系自体にも目立った不具合は見られなかったことから、当局は翌年に早速同系の増備を決断、昭和40(1965)年10月のダイヤ改正で増備車55両が投入され、晴れて「つばめ」「はと」が481系での運転となります。これによって、機関車に牽引される特急電車という珍しい(みっともない?)編成形態は見られなくなり、スピードアップも図られました。「はと」の運転区間が従前どおり新大阪-博多間とされたのに対し、「つばめ」の運転区間が大幅に延伸され、東は名古屋、西は熊本までという、名古屋-熊本間の超長距離列車となりました。これは、名古屋発着の「しらさぎ」と運用を込みにした結果で、後年語り草となる485系の超広域運用の片鱗が、既にこのころ表れたのは注目すべきところです。

しかし、「つばめ」「はと」とも、期待された1等車3両連結は実現せず、「雷鳥」「しらさぎ」と共通の11連(1等車2両)とされました。これは、山陽・北陸の両系統で運用を共通化したためですが、同時に山陽系統でも、優等車の需要が東海道ほど高くなかったことも理由と思われます。

ちなみにその後、現在に至るまで485系の1等車(グリーン車)3両連結は実現していません(後年の『雷鳥』と『ゆぅとぴあ和倉』の併結はあるが、あれは同一編成ではない)。

 

昭和37(1962)年の登場もふいにされ、初の交直両用の特急型電車投入の栄誉も北陸に奪われた東北でしたが、やっと昭和40(1965)年になって、481系の50Hzバージョンである483系48両が投入されました。車種は、先頭車クハ481と1等車サロ481、食堂車サシ481は481系と共通で、車番も続番とされました。異なるのは中間電動車の形式で、こちらはモハ482・483とされています。

先頭車も1等車も食堂車も、そして勿論電動車モハ482の出で立ちも、481系と瓜二つでしたが、外見で唯一異なっていたのは、先頭車のスカートの色。483系の先頭車として登場したクハ481は、台枠部分と連結器カバーを赤、スカートをクリーム色に塗装していました。そしてボンネット部には赤いひげ。これは481系としてのクハ481の出で立ちとは全く異なるものです。483系登場直後、481系としてのクハ481にもボンネットに赤いひげが描かれ、スカートを赤色にしています。当時の交直両用の急行型・近郊型電車は、交流60Hz対応車には車体裾にクリーム色の細帯を入れていましたが(50Hz対応車には入れていなかった)、特急型車両ではそういうわけにもいかないので、先頭車のスカートの色で区別したということなのでしょう。

483系の編成は、電動車ユニット2組に1等車・食堂車を1両ずつ組み込んだ8連と、電動車ユニットをもう1組増やした10連の2種。

 

←上野 TcM'MTsTdM'MM'MTc 仙台・盛岡→

(8連は下線のユニットを抜く)

 

1等車が1両というのは、いかにも少ないように思えますが、東北系統は山陽・北陸以上に優等車の需要が少なかったので、実態を踏まえた結果ではあります。

この年、東北本線盛岡までの電化が完成したことから、電車特急の運転も盛岡までとされ、「やまびこ」(上野-盛岡。『つばさ』の盛岡編成を分離して電車化)、「ひばり」(2往復。上野-仙台)の合計3往復が483系の運転とされました。10連は「やまびこ」と「ひばり」1往復、8連は「ひばり」1往復に充当され、電車特急が東北線にも走り始めました。これら電車特急は利用客からの好評を受け、予備車の電動車ユニットを下線部のところに増結して所定8連のところを10連で運転したり、所定の10連に予備の1等車を増結して山陽・北陸と同じ11連で運転したりということもあったようです。国鉄当局も、早速翌年の6月に電動車ユニット2組4両を増備、8連を解消して常時10連が組めるようにしました。

 

こうして、交直両用の特急型電車、481系と483系が出揃いました。

しかし、国鉄にとって、交直流電車が50Hz・60Hz双方の区間に乗り入れできるようにすることは、長年の悲願でもありました。そこで国鉄は、50Hzと60Hzで分かれていた主変圧器の共通化など、機器の研究開発を続けていました。

その技術的なめどがついたのが、あの「ヨン・サン・トオ」の前。国鉄は、「ヨン・サン・トオ」こと昭和43(1968)年10月1日の全国ダイヤ改正を機に、いよいよ「真打ち」を世に出すことになります。

 

その3(№3890.)に続く