その15(№3797.)から続く

 

「50.3」から41年経過した今年3月、最後の定期急行にして最後の客車列車「はまなす」が運転を取り止めました。あれから40年と少し経過して、「客車急行」というジャンルは、完全に終焉を迎えたことになります。

 

では、その41年の間に、何故客車急行は絶滅するに至ったのか、今回は最終回として、そのことを考えてみたいと思います。

勿論昼行であれば、客車急行が絶滅した原因ははっきり指摘できます。スピードと機回しの煩雑さ。

このふたつだけは、どう足掻いても電車や気動車に敵うものではありませんし、まして機回し・折返しの煩雑さは電車・気動車以上であり、合理化を旨とするJRには受け入れがたいものです。既に昼行客車急行の歴史は、昭和47(1972)年3月ダイヤ改正での「白山」「十和田(←みちのく)」特急格上げによる廃止をもって、事実上終了していたと断じても差し支えないでしょう。「ニセコ」は本州との荷物車・郵便車の継走の必要という特殊事情があって残っていたに過ぎません。だから「宗谷」「天北」の客車化は、本来であればあり得ないことでした。

そして夜行の場合は、1990年代以降の需要の急激な縮小。

 

それ以外での最大の理由は、JRの分立。これが大きな要因と思われます。

「JRの分立」といっても、旅客会社の6分割のことではありません。旅客会社と貨物会社に別けてしまったことです。

それまでの国鉄なら、旅客も貨物も同じ事業者による運営ですから、例えば専ら貨物列車に使用している機関車を、貨物の少ない時期には旅客用に回すことも容易にできました。勿論その逆も然り(ただ、厳密には旅客用機関車と貨物用機関車とでは特性が異なり、旅客用機関車が貨物列車を牽引することは少なかったのですが)。

その点に着目して、貨物の閑散期=旅客の繁忙期に、多客期の臨時列車や団体列車に機関車ともども有効活用しようとして製造されたのが、12系や14系という客車だったわけで、少なくとも国鉄時代においては、そのような試みは正しかったといえますし、成功したともいえます。国鉄時代、夜行区間を含む長距離列車や臨時列車に客車が多かった理由は、1両単位での増解結が可能であり輸送力の調整がしやすいこと、臨時列車の場合は遊休状態の貨物用機関車を転用でき効率が良いこと、などでした。

ところが、JR分立で旅客会社と貨物会社が分立してしまい、旅客会社が旅客列車用に少数の機関車を保有しなければならなくなったことで、それまであまり注目されなかった、機関車牽引列車を運転することによるコストが、旅客会社に重くのしかかってくるようになりました。旅客会社は、少数の機関車のために、保守点検の体制を整えなければならない。少数の機関車牽引列車のために、操縦資格を有する機関士を要請しなければならない(電車の運転士、気動車の運転士、機関車の機関士は全て資格が異なる)ということになり、機関車牽引列車が一気に非効率と化してしまうことになりました。しかも、機関車牽引列車特有の問題として、前述した機回しの煩雑さその他運転取扱いの面倒さもあり、もともと電車・気動車列車に比べて機動性に劣ることも仇となりました。さらに、国鉄時代末期からJR発足まで、都市圏においては増発と列車の高速化が併せて実施されており、このことも足の遅い・折り返しに手間のかかる客車列車が邪魔者扱いされる要因となってしまいました。

勿論、これらとは別に、機関車そのものの老朽化の問題もあります。機関車は全て国鉄時代、それも昭和55(1980)年ころまでに製造されたもので、これらが2000年代を迎えると、老朽化の問題が一気に噴き出しました。機関車の老朽化と共に進んだのが、機関車を動かす人=機関士の高齢化。前述のように養成にも手間と時間と費用がかかりますが、少数の機関車と機関車牽引列車のためにそこまでする必要性も、JR旅客会社の中では薄らいでいきました。中には、JR東海のように、自前の機関士を養成しなくなった会社も出現し、ますます機関車牽引列車の肩身が狭くなっていきました。東海道線を走る「銀河」や「富士・はやぶさ」が廃止となった最大の理由は、JR東海に機関士がいなくなったからだといわれています。その後、JR東海がレール輸送車を気動車として製造したり、JR西日本が除雪用車両を機関車ではなく気動車とて製造したりしていますが、これはいずれも気動車の運転士の資格で運転できるようにしたためです。

このような理由で、JR分立後の旅客会社にとっては、機関車牽引列車は一部を除いて「お荷物」となってしまい、それが客車急行の寿命を縮めてしまったと思われます。

 

そもそも、客車急行の場合、体質改善が図られていたとはいえ、その歩みは特急のそれの後追いであり、昭和57(1982)年まで、一部系統には古色蒼然たる一般型客車が使用されていたという、当時でも時代遅れだったサービス水準では、競合交通機関の台頭や度重なる運賃・料金値上げの状況下では、利用者から見限られてしまうのもやむを得なかったといえるでしょう。「50.3」以前に客車急行が12・14系で統一されていればあるいは…という気もしますが、それは当時の国鉄の財政状況と労使関係を考えれば非現実的です。

それでもまだ、JR発足直後に何らかのテコ入れがあれば、まだ違っていたのかもしれませんが、やはり国鉄時代末期から「急行」という列車種別の存在意義が曖昧になってしまっていたため、特急のテコ入れが優先され、急行は後回しにならざるを得なかったのでしょう(それでも昼行急行などは、キハ58系の座席取り替えなどのサービス改善を行った例もあるにはありますが…)。

前述したとおり、客車急行から一般型客車を放逐したのが昭和57年ですから(北海道は寝台車のみ翌年まで使われた)、その直後にでも「まりも」→「はまなす」の「ドリームカー」のような車両が指定席車に出てきていれば、あるいは寝台車の料金値下げなどがあれば、エコノミー志向の旅客の需要は掴めたかもしれませんが、全てが後手に回った感は否めません。

ただ、仮にそのようなグレードアップ、料金値下げなどが行われたとしても、機関車牽引列車を運転することのコストや就寝時間帯に列車を走らせることのコストを考えると、やはり客車による夜行急行列車は、東海道・山陽・東北・北陸といった、貨物列車が多数走っている大幹線でしか成り立ち得なかったのではないかと思われます。しかも、最近はテロの危険もあり、保安のために車掌を増員したり、警備員を同乗させたりすれば、そのコストは鉄道事業者の負担となり、さらに運賃・料金として利用者に跳ね返ってくるわけですから、そうなると料金値下げによる廉価なサービス自体が立ち行かなくなります。高速バスが成り立つのは小回りが利くこと、運転士2人乗務で事足りること、客室が狭く定員が少ないため治安維持がしやすいことなどが挙げられますが、夜行列車では恐らく難しいのではないかと思います。

以上からすると、客車急行は絶滅すべくして絶滅した、という結論しか出てきません。

結論としては寂しいですが、列車のあり方も体系も、時代と共に変わるもの。それは仕方のないことです。

 

改めて、歴史の彼方に走り去っていった客車急行たちに敬意を表したいと思います。

今後は、模型で楽しむことにしましょう。EF58やED75の後ろに、10系寝台車やスハ43系を連ねて。

 

-完-

 

【お知らせ】
これで平成28(2016)年の連載は終了しますが、12月の毎週火曜日は「10年ひと昔を振り返る(仮題)」として、JR・私鉄・バス・航空の4分野について10年間の回顧記事をアップする予定です。どうぞお楽しみに。