その2(№3695.)から続く

 

「50.3」前後の客車急行の状況概観ですが、今回は名古屋・大阪発着の東海道・山陽以外の系統、具体的には日本海縦貫線と山陰線・中央線を取り上げます。

 

大阪発着の客車急行として著名なのは「きたぐに」と「だいせん」。

「きたぐに」は、大阪から青森まで日本海縦貫線を全線走破し、しかも編成内容はグリーン車・普通車・A寝台・B寝台の「フルセット」。ただし、普通座席車は北陸トンネル火災事故の影響か、昭和48(1973)年から12系客車に置き換えられ、しかも寝台車は大阪-新潟間のみの連結。この列車は「ヨン・サン・トオ」といわれる昭和43(1968)年10月の全国ダイヤ改正まで「日本海」を名乗り、大阪から東北や北海道への旅客をターゲットにした列車でしたが、このころになってくると、大阪-新潟の夜行列車と新潟-青森の昼行列車と、二つの顔を持つ列車となっていました。それでも昭和50年2月当時、「桜島」「高千穂」とともに、1000km以上を走破する超長距離急行として、存在感は揺らぎませんでした。

対する「だいせん」は、「きたぐに」ほどの長距離運転でもなく、一般型客車を連ねた編成でしたが、特筆されるのは「きたぐに」とほぼ同じ「フルセット」の編成であったこと。しかも当時は座席車が全席指定、普通座席車の自由席はありませんでした(準寝台列車仕様)。今から見ると随分と強気な編成内容ですが、これは、当時京都-出雲市間でB寝台車を連結した普通夜行列車が走っていて、自由席客の需要はそちらで賄っていたからだろうと思われます。ちょうど「銀河」に対する「大垣夜行」のような感じです。

大阪発着の「だいせん」と京都発着の普通夜行列車は、かつては兄弟列車だったそうで、それぞれ「京都夜行」「大阪夜行」と呼ばれていました。「大阪夜行」が昭和30(1955)年に急行「しまね」に格上げされた後も、「京都夜行」は普通列車のまま残っていました。その状況が、「大阪夜行」の列車名が「しまね」から「だいせん」に代わっただけで、昭和50(1975)年3月のダイヤ改正の直前まで続いていました。

なお、「京都夜行」は、寝台券をマルスに組み込むため列車名を付ける必要が生じ、昭和52(1977)年に「山陰」と名付けられています。

 

山陰線を走る客車急行として、西部を走る「さんべ」(米子-博多)もここで取り上げておきましょう。

「さんべ」は山陰と北九州を結ぶ列車で、昭和50年3月の全国ダイヤ改正直前まで、何とA寝台車を連結していました。A寝台車といってもB寝台車との合造車(オロハネ10)でしたが、今にして思うと、こんなローカルな列車(失礼)でも、半室ながらA寝台車が連結されていたものだと驚いてしまいます。やはり地方幹線の夜行列車にも優等車の需要があり、それで合造車が用意されたのかもしれませんが、編成の白眉だったオロハネ10は昭和50年3月のダイヤ改正で外され、普通座席車とB寝台車だけの編成となっています。

 

さらに名古屋発着の客車急行として、「きそ」もありました。「きそ」は名古屋発着の列車ですが、大阪発着の「ちくま」とは兄弟列車ともいえる関係ですので、便宜上こちらで取り上げることにいたします。

「きそ」は名古屋から中央西線を松本・長野へ向かう列車でしたが、この列車は夜行としては距離が短いせいか、普通座席車の他にはB寝台車だけの簡素な編成でした。

 

昭和50年3月のダイヤ改正の時点では、北陸・山陰・中央の夜行はこうなっていました。

 

・ きたぐに 1往復 「フルセット」、ただし寝台車は新潟まで

・ だいせん 1往復 「フルセット」

・ さんべ 1往復 B寝台、普通座席車

・ きそ 1往復 B寝台、普通座席車

 

この改正で大きな動きのあった山陽系統や、特急(ブルートレイン)への格上げのあった東北・上越系統に比べれば、「さんべ」からA・B寝台の合造車が外された以外は、ほぼ無風といっていい状態でした。これらの列車の中で「きたぐに」は、「桜島」「高千穂」の廃止に伴い、国鉄(当時)の急行では唯一走行距離が1000kmを上回る列車となり、それ故に鉄道趣味界からも注目されるようになります。また、名古屋発着の夜行「きそ」は、この改正以降も生き残りましたが、その一方では西に向かっていた「阿蘇」が消え、名古屋駅の夜がやや寂しくなってしまいました。

当時は、山陰にも北陸にも臨時客車急行が走っていました。山陰方面の「だいせん」は夜行で12系客車を使用していましたが、これは定期「だいせん」の普通座席車との間では歴然たる格差となりました。定期「だいせん」の普通座席車は一般型客車であり、冷房がなかったからです。このような、定期列車よりも臨時列車の方が相対的に快適な車両が使われているという逆転現象は、12系客車登場のころから目立っていましたが、なぜ早期に同系を客車急行に使おうとしなかったのでしょうね?

北陸の臨時急行は、何と特急用であるはずの14系で昼間運転されていましたが、当時運転されていた急行「立山」の一員とはならず、「加賀」という独自の名前がついていました。これは、「立山」という名称が富山県を意味するものであることから、大阪-金沢間の臨時急行には相応しくないと考えられた結果かもしれません。「加賀」は、JR発足後もしばらくの間運転が継続されていました。

これらに対し、中央系統は大阪から臨時「ちくま」が夜行で走っていました。こちらも12系客車でしたから、山陰の「だいせん」と同じように、定期<臨時というアンバランスが生じていたわけです。後に定期「ちくま」は客車化されますが、昭和50年の時点では定期「ちくま」は気動車急行でした。

臨時夜行客車急行の設定は、「客車急行不毛の地」と思われる紀勢線にもあって、時折12系客車による臨時「きのくに」が運転されていたことがあります。当時は所謂「太公望列車」といわれた普通夜行列車(この列車は寝台車を連結していたため、寝台券のマルス収容の必要性から『南紀』の愛称がついた)の他に、気動車による夜行「きのくに」もあったくらいですから、紀勢線の夜行需要の高さがうかがえる内容です。もっともこちらは、「きそ」「ちくま」が登山客を主な顧客としていたのに対し、こちらは釣り客でしたが。

 

以上が、北陸・山陰・中央の状況です。

次回は、北海道と九州の状況を概観します。

 

-その4に続く-