碓氷峠を補助機関車無しで走ることのできる電車があったら。
それは、ある意味で国鉄技術者の究極の夢、希望でもありました。
技術者の希望ばかりではなく、もっと実利的な目的もありました。それは、横川・軽井沢両駅での補助機関車の連結・開放の解消です。これらの作業には、大変な時間と人手、労力がかかります。もしこれらの作業が解消できれば、飛躍的な合理化が可能になるからです。

このような必要性から、碓氷峠を自力で走ることのできる電車を作れないか、国鉄は模索を続けてきました。
勿論、粘着運転(アプト式のような補助装置を使わない通常の鉄道のシステム)でも、碓氷峠より急な勾配を行き来している鉄道が、日本国内に実在します。それが箱根登山鉄道ですが、こちらは最急勾配が碓氷峠のそれを凌ぐ80‰。しかし、そこを走る電車には急勾配を安全に上り下りするための装備が施され、普通の電車とは異なる「特殊仕様」となっていました。
碓氷峠を走らせられたとしても、上野-横川と軽井沢-長野(-直江津)が高速運転できなければ、スピードアップにはなりません。つまり、平坦な路線での高速性能と急勾配を登坂できる性能の両立が求められましたが、これは南海高野線の「ズームカー」に前例があります。
つまり、碓氷峠を自走できる電車とは、「国鉄版ズームカー」の開発ということでもありました。

このような「国鉄版ズームカー」については、国鉄内部でも研究が続けられてきましたが、昭和の末期になって技術的な目途がつき、その構想が「187系」として具体化されることになります。
「187系」は単位重量当たりの出力を上げるためか、車体を軽量化するためにアルミ合金製の車体とし、電動車はM-M-M-Mの4両ユニット、そのユニット2つの間に付随車を挟む編成形態とされ、メカニックは当時205系で採用された界磁添加励磁制御の採用が考えられていました。電動車ユニットが普通車、挟まれる1両の付随車がグリーン車ではないかという編成構成が、容易に想像できます。それならなぜ、当時北陸新幹線の車両向けに研究が進められていたVVVFインバーター制御を採用しなかったのかという疑問がわきますが、当時はまだVVVFインバーター制御は熊本の路面電車や大阪の地下鉄に採用された程度であり、普通鉄道に採用された実績が皆無に等しかったため、従来の技術の延長線上で対応できる、界磁添加励磁制御を採用したものと思われます。

しかし、当時の国鉄財政のこと、コストダウンの要請も突き付けられました。そこで、「187系」は完全な新造車とするのではなく、既存の特急型車両の改造によるものとし、その種車として183系のグリーン車が確保されました。この車両は、昭和57(1982)年の上越新幹線開業・「とき」廃止による房総方面の優等列車完全特急化に伴って、房総方面の列車に連結すべく確保した車両だったのですが、実際には利用率を鑑みグリーン車の連結がなされなかった(※)ことから遊休状態にあった車両で、遊休状態にある車両の有効活用を図ろうとしたことは、想像に難くありません。

※=昭和57年11月、両国・新宿-銚子(成田・佐原経由)の急行「水郷」を格上げした特急「すいごう」が運転を開始したが、急行時代に連結されていたグリーン車は連結されなかった。これは急行時代の利用実績を勘案したものとされる。そのため「すいごう」用に用意されたグリーン車が宙に浮いてしまった。その宙に浮いたグリーン車を「187系」の改造種車として有効活用しようという考慮があったと思われる。

種車がグリーン車であることや、当時の経済情勢もあって豪華化の一途をたどっていたサロンバスに対抗する必要などから、「187系」は全車グリーン車+ハイデッカー仕様のサロンカーの編成構成とするとか、そこまでいかなくとも既存車よりハイグレードな内容にすることなど、今にして思えば夢のある企画が様々に語られていました。
もし「187系」が全車グリーン車のハイグレード仕様で世に出ていたら、後年の251系「スーパービュー踊り子」と双璧を成す、国鉄→JR東日本の豪華列車として勇名を馳せることになったかもしれません。あるいは、ビジネスよりもレジャーの需要の方が大きかったかもしれず、「あさま」よりも「そよかぜ」の方が適任だったかもしれない…など、様々な「if」が浮かんできます。

しかし、「187系」が姿を現すことはありませんでした。
その理由は色々あります。1編成だけなので運用効率が悪い。多額の投資に見合った効果が無い。等々。
その最大の理由は、整備新幹線である「北陸新幹線」の計画にゴーサインが出たことです。「北陸新幹線」が実現すれば、事実上の碓氷峠のバイパスが出来上がることになり、補助機関車の問題もなくなります。だから、身も蓋もないことを言ってしまえば、「北陸新幹線」構想は、横川-軽井沢間の輸送上の隘路の解消と補助機関車の淘汰という目的があったわけでして(同様の目的は奥羽線福島-山形間の標準軌化のときもあったらしい)。
実際に「北陸新幹線」は、国鉄の分割・民営化の10年半後、平成9(1997)年10月に開業するわけですが、それと引き換えに在来線特急はすべて姿を消しているわけで、仮に「187系」が世に出ていたとしても、本来の活躍ができた期間は、せいぜい12年くらいしかなかったのではないかと思われます。

「187系」が幻に終わったことで、「国鉄版ズームカー」も幻に終わってしまいましたが、その構想は新幹線で実現しているといえます。新幹線長野開業時に登場したE2系、その後の金沢開業時に登場したE7/W7系は、新幹線としての高速性能と(新幹線としては破格な)急勾配を上下する性能と、その両者を兼ね備えているからです。
そういう意味では、「187系」の構想は決して無駄ではなかったといえます。

次回は、いよいよ「グレードアップあずさ」のお話です。

その10(№3599.)に続く

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