今回から11回(予定)に分けて、日航(JAL)以外の航空会社による国際線はどのように発展していったか、その歩みを見ていきたいと思います。
当ブログの連載記事のテーマに、航空ネタを選ぶのは今回初めてです。どこまでできるか分かりませんが、よろしくお付き合いのほどを。

日本が昭和20(1945)年の敗戦により、GHQから航空技術の研究・開発等を禁じられたことは、当ブログでも折に触れて言及していますが、禁じられたのは航空活動の一切。「一切」ですから、その中には航空路線の運営も含まれます。
勿論その禁止は永続的なものではなく、航空路線の運営の禁止は昭和26(1951)年、航空技術研究・開発等の禁止はその翌年に解除されていますが、そうなると今度は、日本国内各地に続々と航空会社が誕生し、群雄割拠の体を呈します。
しかし、当時の航空需要は現在とは比べ物にならないほど小規模なもので、航空会社そのものの運営も不安定であったと思われます。そのためか、政府および運輸省は、「わが国の航空事業の健全な発展のため、事業者の集約化による輸送秩序の確立」を眼目として、様々な施策を推進していました。
昭和40(1965)年10月、運輸大臣は航空審議会に「わが国定期航空運送事業のあり方について」諮問し、航空審議会は同年12月27日に答申を提出しています。その内容は、

① 国内線を運営する企業における経営基盤の充実強化
② 定期航空運送事業は国際線1社、国内線2社を適当とする

というものでした。
その5年後、航空業界の合従連衡により、日本の航空会社は、米国施政下の沖縄で離島の交通の便の向上のために設立された南西航空を除いては、日本航空、全日本空輸(全日空)、東亜航空、日本国内航空の4社に事実上集約されました。この時点では、日本航空と日本国内航空、東亜航空は全日空との合併が画策されていましたが、東亜・日本国内の両航空会社の業績が急伸したため、この画策は不発に終わります。
そこで運輸政策審議会は昭和45(1970)年10月、「今後の航空輸送の進展に即応した航空政策の基本方針について」答申を行いました。

これを受けた閣議了解(昭和45年11月)

・ 航空輸送需要の多いローカル線については、原則として、同一路線2社で運営。
・ 国際定期は、原則として日本航空が一元的に運営(※)、近距離国際航空については、日本航空、全日空提携のもとに余裕機材を活用して行う。
・ 貨物専門航空については、有効な方法を今後早急に検討する。
※=これの例外となっていたのが、全日空の羽田-那覇便。当時の沖縄は米国の施政下にあったから、この路線は紛れもなく「国際線」だった。

そして、昭和47(1972)年7月の大臣通達は次のとおり。

・ 日本航空…国内幹線、国際線を運営する。国際航空貨物輸送対策を行う。
・ 全日空…国内幹線およびローカル線の運営。近距離国際チャーターの充実を図る。
・ 東亜国内航空…国内ローカル線、国内幹線の運航。

上記昭和47年7月の大臣通達を受けた体制こそ、「45/47体制」といわれるもので、日本の航空市場における事業分野の枠組みを定めたものです。
これによって、日本航空が国際線を一手に引き受け、合わせて国内線幹線の運行、全日空は国内幹線・ローカル線・国際チャーター便の運航、東亜航空と日本国内航空は合併して東亜国内航空(後の日本エアシステム)となり国内ローカル線の運航を担当し将来的には幹線に参入するという体制が確立しました。

昭和50年代、日本の航空路線は「45/47体制」にしたがって運営されてきました。国際定期便を運航しているのは日本航空だけでしたから、乗客も日本の航空会社を利用して海外に行こうと思えば日本航空しかなく、国際線に乗務するパイロットやスチュワーデス(今はキャビンアテンダント、CAと呼ぶようですが)になろうと思えば、日本航空に就職するしかなかった時代です。
昭和58(1983)年、CA訓練生の訓練風景を描いたドラマ「スチュワーデス物語」がテレビで放送されました。このドラマは、時代がかった過剰な演出や出演俳優のオーバーな演技が目立ち、ともすれば物真似などの「ネタ」にされることも多かったのですが、それ以外の研修や運行にまつわる部分は、日本航空の全面協力を得て、一切の妥協なしに制作。何人かの指導教官役に、当時現役の本物の指導教官が出演していたことも、大きな話題になりました。
当時は、会社としての日本航空が、前年の日航機羽田沖墜落事故のダメージから脱し切れていなかった時期でした。しかし何が幸いするか分からないもので、このドラマのヒットによって、国際線運航に携わる日本航空の乗務員の奮闘や訓練生の実態が世間に周知され、同社にとっては前年の事故のダメージを払拭して余りあるほどの、絶大な広告効果があったと聞きます。事実、その翌年の大学生の就職希望企業では確か首位になっていたような。

しかし、このような「45/47体制」は、次第に実状との乖離を来すようになります。
「45/47体制」、「日本の航空市場における事業分野の枠組み」といえば聞こえはいいですが、何のことはない、当時の銀行業界などと同じように、国家が枠組みを作って業界を庇護し、その中で運営させる、所謂「護送船団体質」に他ならないものでした。
勿論、この体制を作った当初は、航空業界について国の庇護が必要であったことは事実であり、それ故に「護送船団体質」を取ることにも一定の合理性はあったのですが、その後の航空旅客の爆発的増加に伴って航空会社の売上が上がってくると、もはや庇護の必要もなくなり、かえってこのような体制が、航空会社の経営戦略の「足枷」に成り下がってしまったということです。
既に昭和53(1978)年には、米国内の「規制緩和」政策により航空会社相互の競争が促進し、結果として運賃が低下し乗客の利益になるという現象が出来していました。そればかりではなく、「45/47体制」を維持したままでは、将来同一国から複数社の便の乗り入れ要請があった場合に、日本側は日本航空1社分しか認められず、国益に反する結果になることも、問題視されるようになってきました。
そのような流れを受け、昭和60(1985)年には、運輸省は「45/47体制」の見直しを決定し、これを受けて翌年出された運輸政策審議会の答申により、「45/47体制」に基づく各社の棲み分けは、事実上放棄されることになりました。
これによって、国際線運航は日本航空以外の航空会社、具体的には全日空や東亜国内航空などにも認められることになります。

この「45/47体制の見直し」を受けて、全日空は、日本航空以外では初めてとなる、国際線の定期便の運行に着手することになります。