毎週火曜日更新を標榜しておりながら、なかなか更新ペースが遵守できない管理人です(挨拶
今回は、新幹線博多開業に関してのお話です。

新幹線が岡山に達した翌年、早くも車両面で博多開業を見据えた動きが出てきます。
博多開業後も、東海道・山陽を一体として運営するという国鉄の方針は変わりませんでしたが、東京-博多間の距離が1000kmを超え、所要時間も長くなることから、従来のビュフェ車のみの供食体制ではあまりにも貧弱ではないかという指摘がなされるようになりました。
そこで、国鉄は新幹線の歴史で初めてとなる食堂車の組み込みを計画します。営業形態には議論があり、当時の欧州で普及しつつあった、セルフサービスを主体とする形態の採用も議論されましたが、国鉄の看板列車がそのような供食体制では…ということなのか、従来型の食堂車に落ち着いています。0系では食堂車も電動車とされましたが(36形)、食堂車には大容量の水タンクを搭載することなどから、通常のユニットのように機器を分担することができず、一部の機器を食堂車とユニットを組む車両(27形)に搭載しています。このため、27+36のユニットは固定的なものとされました。
なお、27形は新幹線で初めて、現代のバリアフリーの発想を取り入れた車両で、車椅子での利用を可能にし、身障者の利用を想定した多目的室も備えています。
27+36のユニットは、現車が昭和49(1974)年初頭から登場しますが、まずは所要編成数も激増することから、12連でありながらグリーン車を2両組み込む編成が登場します。この編成は暫定的に「こだま」に運用されました。
そして、翌年から27+36のユニットが登場すると、既存の「ひかり」編成からビュフェ
車を含むユニットを抜いて差し替え、前記の暫定編成に組み込まれました。勿論、暫定編成にも27+36のユニットが組み込まれています。
そして「ひかり」編成への食堂車組み込みが完了したことから、博多開業前の昭和49(1974)年9月4日から、「ひかり」で食堂車の営業を開始しました。この前の年、「こだま」のビュフェ営業が休止になったのですが、それは「こだま」ビュフェの利用率の低迷というよりは、こちら「ひかり」食堂車の要員確保の狙いもあったとされています。同時に移動制約者の受け入れ態勢も整い、「ひかり」での車椅子などでの利用が可能になりました。
前後しますが、この年の5月28日、新関門トンネルが完成、同年10月26日には試運転編成が小倉へ乗り入れ、新幹線が初めて九州へ上陸しています。

そして昭和50年3月10日。
山陽新幹線岡山~博多間が開業し、「ひかり」が博多へ到達、同時にダイヤパターンも「5-5ダイヤ」といわれる、「ひかり」「こだま」が1時間あたり各5本というものに移行しました。ただし、博多開業の時点では東京駅の15番ホームが未だ新幹線へ転用されておらず(工事完成・使用開始は同年7月18日)、1年間は暫定ダイヤを余儀なくされました。
博多開業当時のダイヤパターンは、

Wひかり 山陽区間は岡山・広島・小倉のみ(一部小郡)停車
Aひかり 山陽区間は新神戸・姫路・岡山と岡山以遠の各駅(翌年、岡山-広島間を福山のみ停車に変更)
Bひかり 山陽区間は各駅停車
こだま 早朝・深夜を除いて東京-新大阪間の運転

とされました。
東京-博多間の所要時間は、最速の「Wひかり」をもってしても6時間56分。これは、小倉-博多間の一部でかつての炭鉱地帯を通過するため、路盤などが不安定であることなどが考慮されたもので、のちに6時間40分に短縮されています。

博多開業によって、山陽線在来線の昼行優等列車は支線区に直通するもの以外は全廃され、夜行列車も沢山走っていた夜行急行はほとんど廃止されています。これは、東海道のときとはことなり新幹線への乗客の移行をある程度計算できるようになったことと、当時既に赤字に転落していた国鉄財政を救うためには、料金収入の大きい新幹線への誘導が得策とされたからだといえます。
ちなみに、東京・関西-九州間の寝台特急列車も一部削減され、東京-鹿児島を一昼夜以上かけて走っていた急行「桜島・高千穂」は、この改正で廃止されています。これによって、東京発着の九州直通急行が全廃されました。

博多開業後の新幹線の乗客数は順調に増加し、昭和50年のゴールデンウィーク最終日には東海道・山陽の両新幹線で1日あたり103万人という空前の乗客数を記録しています。この記録は、JR移行後の平成2(1990)年まで破られることはありませんでした。
翌年には7月の長崎・佐世保線の電化完成などによるダイヤ改正が行われ、新幹線でも列車の増発が行われたほか、初めて新横浜・静岡に停車する「ひかり」が1本だけ登場しています。また、この改正では「こだま」のビュフェ営業が復活しています。ただし、カレーなどは紙皿に盛られるなどの簡易営業でしたが、温かい料理にありつけるようになっただけでも、朗報には違いありません。

しかし、好事魔多し。
このころ最悪の状態に達していた国鉄内部の労使関係は遂に、全国の国鉄の列車を旅客・貨物とも1週間以上にわたって停止させる、所謂「スト権スト」にまで至りました。当時国鉄職員には認められていなかったスト権(団体交渉権)を「奪還する」という、今にして思えば無理がありすぎる理屈で、なぜこのような理屈でストに突っ走れるのか管理人には甚だ疑問なのですが、労働組合が力業でこうした暴挙に及んでしまったものです。
この「スト権スト」によって、国鉄の列車は8日間停止したものの、通勤通学以外の国民生活には何らの痛痒も及ぼさず、何らの混乱も起こりませんでした。このことは、労使双方に大変な衝撃を与えたようで、これが12年後の国鉄の分割・民営化につながっていったとの指摘もあります。
そしてさらに追い討ちをかけるかのように、昭和51(1976)年11月、赤字にあえぐ国鉄財政を再建させるためとして、運賃・料金の大幅値上げが実施されました。このときの値上げ幅は、実に50%以上にもなるもので、長距離客は軒並み航空機に逃げ、中短距離客は自家用車に逃げるなど、雪崩を打ったように乗客の逸走が起きてしまいました。このような減少は「国鉄離れ」といわれましたが、以後国鉄が分割・民営化される昭和62(1987)年まで、ほぼ毎年のように値上げが繰り返されました。
今にして思えば、このころの値上げで管理人が誤算だと思うことはただひとつ、「値上げによって逸走する乗客を計算に入れていなかったこと」です。既に当時、航空機や自家用車など、競合交通機関は力を付けてきていました。あるいは、当時の国鉄内部には「鉄道こそ陸の王者、最強の交通機関」という自負がなおもあったのでしょうか。もしそうだとしたら、間違ったプライド故に周囲が見えなくなってしまった悲劇でしょうね。

このころになると、国鉄の経営も厳しさを増していくのですが、東海道新幹線には、「インフラ設備の老朽化」という問題が立ちはだかってきます。
というわけで次回は、老朽化するインフラにどのように国鉄が立ち向かったかという話題を取り上げたいと思います。

その11(№2817.)に続く

※ 当記事は06/13付の投稿とします。