その7(№2798.)から続く


ひかりは西へ。
昭和47(1972)年3月15日、新幹線は西へ延び、岡山に達しました。
新大阪以遠は正式には「山陽新幹線」ですが、この名称は東海道新幹線共々、旅客に対する案内には使われませんでした。当時の「時刻表」でも、岡山開業だけではなく博多開業後もなお、項目名を「新幹線」としていました。これが「東海道・山陽新幹線」と記されるようになったのは、昭和57(1982)年の東北新幹線開業以降です。
さて、山陽新幹線は東海道新幹線に比べ、格段に立派なインフラになりました。これは勿論、東海道新幹線開業後の技術や車両性能の向上を反映したものですが、その反面、在来線特急が停車しなかった相生などに駅が作られ、東海道よりも平均駅間距離が短くなっています。これは、当時「全国新幹線網計画」に基づき、夜行新幹線を運転する計画があり、夜間の単線並列運転を想定したものとされています。

岡山開業に伴い、東海道新幹線はダイヤパターンを「ひかり」「こだま」1時間あたり各4本とする「4-4ダイヤ」を採用しました。
ただ、東京-岡山間を一体としてみた場合、新大阪以西では輸送量の「段落ち」が生ずることから、岡山へ直通する列車は早朝・深夜と臨時列車以外「ひかり」に限るものとし、その代わりに新大阪-岡山間で停車駅を多様化させました。これに対し、「こだま」は一部を除いて東海道区間のみの運転としています。これは、「こだま」が東海道区間のみでも4時間15~20分程度の所要時間だったため、「こだま」をそのまま岡山に延伸してしまうと、所要時間がかかり過ぎてしまうことも理由だったと思われます。

・Wひかり 新大阪-岡山間ノンストップ
・Aひかり 新大阪-岡山間を新神戸・姫路に停車
・Bひかり 新大阪-岡山間各駅停車

勿論看板列車は「Wひかり」ですが、流石に山陽区間では輸送量が落ちるためか、1時間に1本というわけにもいかなかったようで、1日4往復のみとされました。現在の基準で見るといかにも勿体ないように思えますが、当時は大阪発着の山陽・九州方面行きの昼行優等列車が多数残っていたことや、関西地区を基準とした場合新幹線の時間短縮効果はそれほど顕著ではなかったので、この時点では仕方ないのかと思われます。ダイヤ上多数を占めたのは、「Aひかり」と「Bひかり」でした。
このように、国鉄は山陽区間における「ひかり」の停車駅の多様化を図ったのですが、このことは、山陽区間においては、「ひかり」に「こだま」の役割をも持たせることを意味しています。
そこで、国鉄は歴史的な大転換を図ります。その大転換とは、開業以来全車指定席を貫いてきた「ひかり」に自由席を設け、山陽区間相互間の需要に応えることにしたことです。同時に、それまで「超特急」としての位置づけだった「ひかり」は、超特急ではないただの特急の扱いになりました(『超特急』の呼称の消滅)。同時に、「ひかり」「こだま」で差のあった特急料金が同額になりました。つまり、それまで二本立てだった特急料金が一本化されました。この料金体系は、岡山開業の20年後「のぞみ」が登場するまで維持されています。
なお、この時点では、東京-名古屋間で「こだま」を利用した場合には特急料金を割り引く制度は継続されました。


岡山開業に伴って、当然の如く0系が追加投入されていますが、山陽区間には長大トンネルが点在することから、長大トンネル内でも連続換気ができる構造に改められています。勿論、岡山へ達する「ひかり」編成は、新造車・改造車問わず、全てこのような構造の車両で組成されていますが、「こだま」編成は、臨時運用以外では山陽区間へ乗り入れることがないため、一部の編成は従来どおりの構造の車両が組み込まれたままとされました。
ちなみに、「こだま」編成は昭和41(1966)年から、グリーン車(1等車)が1編成1両とされました。しかし、奇数形式の15形を組み込む編成と、偶数形式の16形を組み込む編成とに分かれていて、旅客案内には困難を来していました。というのは、両者ともグリーン車は8号車とされたのですが、15形組み込み編成は本来の7号車の位置にグリーン車が組み込まれているにもかかわらず8号車と案内されていたからです。それがこの改正に際して、「こだま」編成のグリーン車連結位置は全ての編成が8号車(16形)に統一され、ようやく全編成が統一されました。

岡山開業の時点では、「ひかり」編成はグリーン車・ビュフェ車各2両組み込みの16連、「こだま」はグリーン車・ビュフェ車各1両(一部編成はビュフェ車2両)組み込みの12連となっていました。つまり、この時点では「こだま」は未だ12連だったわけですが、岡山開業に伴うダイヤパターンの変更で「こだま」の増発余力が少なくなってしまったため、「こだま」が一部の列車で大混雑を来すようになってしまいました。当時は国鉄内部の労使関係は悪化していたとはいえ、乗客数の伸びは続いており、「こだま」もその恩恵にあずかったといえます。
そこで、国鉄は「ひかり」に続いて「こだま」も16連化することとし、岡山開業直後の昭和47年6月から着手、翌年7月に全編成の16連化が完成しています。これによって、16連化された「こだま」編成は、5号車がビュフェ車ではない編成の場合、編成全体の定員が1483名となりました。この数字は、今も東海道・山陽新幹線の1編成あたりの定員としては最大の数字となっています。

昭和47年は、国鉄が2度の全国規模のダイヤ改正を実施した年として、特筆すべき年といえます。勿論、1回目は前述の3月ですが、もう1回はいつかといえば、それは10月2日。このときのダイヤ改正の目玉は、日本海縦貫線の全線電化完成や四国島内初の特急列車登場などですが、新幹線でも注目すべき変化が起こります。
それは、東海道区間では名古屋・京都のみの停車だった「ひかり」が、初めてこの両駅以外に停車するようになったことです。具体的には米原に停車する「ひかり」が3往復登場したのですが、この米原停車の「ひかり」と北陸線の特急との乗り継ぎによって、東京と福井・金沢間の所要時間が、これまでの「こだま」との乗り継ぎから約1時間短縮されました。東京-金沢は上野から信越線を経由した方が距離が短いのですが、そこはやはり新幹線の威力、米原経由の方が速くなりました。現在は上越新幹線が開業するなどして、そちらの方が速くなってしまいましたが、今でも「米原乗り換え」は、福井県内には東京からの最速アクセスルートとなっています。
ただ、そういった明るい話題の一方で、昭和48(1973)年10月から「こだま」のビュフェ営業が休止され、売店・車内販売のみの対応とされるという、やや寂しい傾向が現れ始めました。

そうこうしている間に、山陽新幹線の博多延伸の工事は進められ、車両の面でもその準備は着々と進められていきます。
次回はそのお話…の前に、全国新幹線網と夜行新幹線運転計画のお話を取り上げます。

その9(№2806.)へ続く