その1(№2504.)から続く

タイトルは「初の高性能車」となっていますが、これは「東武通勤車としては初の」という意味でございます。だったらそうつけろよ、とおっしゃるかもしれませんが、アメーバブログの仕様でタイトルに字数制限があるので、このようなタイトルとさせていただきました。「東武通勤車の半世紀」というメインタイトルがあるので、誤認の心配はなかろうかと(^^;

…本題に入りましょう。

東京圏の地下鉄との相互乗り入れでは2例目となる、営団地下鉄(当時)日比谷線との相互直通運転。
その開始を間近に控え、東武は流石にそれまでの吊り掛け駆動・半鋼製車体という前時代的なスペックから脱却を図らざるを得なくなりました。
その結果生まれたのが、カルダン駆動・オールMとした「高性能車」2000系。スペックは以下のとおりとなっています。

・軽量化に意を用いた全鋼製車体。
・車体は18m、3扉。客用扉は両開きを採用(東武初)。
・足回りは東武通勤車初のカルダン駆動とし、システムは1720系のものを通勤車に最適化して取り入れた。
・編成構成はオールMの編成構成(2両1ユニット)とし、今後の増結も可能とする。
・内装はアルミデコラ化粧板を多用し無塗装化。
・冷房はないが、換気用にファンデリアを屋根上に設置。
・蛍光灯はグローブつきで高級感を演出。

編成は、当初同系が4連で登場したため、こうなっていました↓

←浅草・人形町 2100-2200-2300-2400 北越谷→

ご覧いただいてお分かりのとおり、2000系のスペックは、昭和30年代の「高性能車」としてのそれを一通り備えたものとなっています。
ただ、7300・7800系列が20m級であったにもかかわらず、なぜ2000系が18m級の車体で製造されたかですが、これは日比谷線の規格が18m級車両に則って決められたからです。これについて、東武は当然のように20m級の規格を主張しますが、当時20m級車両がなかった東急と、建設費を節減したかった営団が20m級規格の採用に難色を示し、その結果現在の規格になったといわれています。その後東急も地上線用の車両が20m級になってしまい、この規格の決定は、現在に至るまで禍根を残すことになってしまいました。

2000系は昭和36(1961)年から投入が開始され、翌年の3月までに4連×10本が投入され、乗り入れに備えます。
日比谷線への乗り入れは、昭和37(1962)年の5月から始まりましたが、2000系はそれまでの間、浅草発着の地上線列車に充当されていました。そのため、正面の行先表示幕には「浅草」や「館林」「太田」といったものが用意されていたそうです。それと正面の貫通扉部分に、列車種別を現す表示板を取り付ける枠があり、そこに「準急」などの板を落としこんでいました。管理人は鉄道雑誌で浅草駅に入線する2000系の写真を見たことがありますし、また貫通扉の種別表示枠も、後年廃車になるまで残っていたように記憶しています。
乗り入れが始まると、伊勢崎線は劇的に都心部への利便性が向上したため、爆発的に乗客が増加します。乗り入れ区間も昭和38(1964)年には東銀座へ到達、「東」の冠こそつくものの、東武の車両が営業運転で銀座に足を踏み入れた記念すべき年となっています。
勿論この間にも乗客は増え続け、翌年、つまり乗り入れを開始してから僅か2年後の昭和39(1964)年には、早くも中間車2両を組み込んで6連化することになり、2350-2250のユニットが登場、既存編成の2200と2300の間に組み込まれました。
なお、この年の8月28日、日比谷線は全線が開業し、中目黒側も東横線日吉までの乗り入れが開始され、このときから東急の乗入れ車7000系(初代)と2000系が顔をあわせています。

その後も2000系の増備が続けられ、第11~14の4編成が一挙に昭和41(1966)年に落成、このグループから最初から6連を組んで落成しています。その2年後、昭和43(1968)年から45(1970)年までに、年に2編成のペースで第15~20編成が落成し、2000系は20編成を数えるまでになりました。
そして、昭和46(1971)年には8連化されることになり、2550-2650のユニットを各編成に挿入、以下のような編成形態となっています。

←浅草・中目黒 2100-2200-2350-2250-2550-2650-2300-2400 北春日部→

ちなみに、これまで2000系はグローブつき蛍光灯でしたが、この2550-2650のユニットだけはグローブがないむき出しの蛍光灯でした。これは学生時代の管理人には有難かったんですよ。他の車両だと、東急や営団の車両に比べても車内の照明が暗かったんですよね。本を読むにはつらい明るさだったので。

結局、2000系は8連×20編成の全160両が揃い、都心部への通勤・通学客の輸送に邁進することになりました。
この間に、相互直通の区間も、昭和41(1966)年、当初の北越谷から北春日部に延伸され、さらにその15年後、昭和56(1981)年には杉戸まで伸ばされ、同時に杉戸駅は近くに自社がオープンさせた動物園兼遊園地にちなみ「東武動物公園」と改称されています。

昭和46年に8連化されてから、2000系には変化はありませんでした。途中、昭和50(1975)年前後にベージュ+オレンジのツートンからセイジクリームの一色塗りになったことと、いつのころからか「日比谷線直通」のステッカーが貼られたくらいです。しかしその10年後、8000系などの通勤車について外板塗色の変更があったときは、2000系は誤乗防止のためか、クリーム色のままとされました。

しかし、流石に昭和末期になってくると、冷房のない2000系はサービスレベルが劣るとして問題になってきます。一時は冷房改造も検討されたようですが、車齢と機器構成を考えると、冷房化するより新しい車両を投入した方が得策だという結論に達します。
そのような結論に基づき、昭和63(1988)年から、冷房を搭載した20000系の投入が開始され、2000系を順次置き換えていきます。中間ユニットの2550-2650は車齢が若いので活用法が検討され、その結果「2080系」という車両の改造種車とされました。
2000系は昭和63年に第10編成が廃車され、その後は櫛の歯が欠けるように1本、また1本と廃車されました。最後に残った第18編成は、「さよなら運転」の大任を果たし、平成5(1993)年に廃車されています。2080系に改造されたものの他は全て解体されてしまい、地方私鉄などに譲渡されたものも、保存されたものも皆無でした。

2000系は、東武初の地下鉄との相互乗り入れ、都心部への直通という大任を果たした、東武の大功労者(車)です。東急沿線在住の管理人には、日比谷線を走る車両で唯一の普通鋼製だった2000系の印象が今でも強く残っています。今でも時々、中目黒の日比谷線が地上に出る部分を見ていると、ここからクリーム色の2000系が出てくるような錯覚に陥ることがあります。
保存車や現存車がないのは残念ですが(台車その他走り装置としては伊予鉄道610形のものとして現存している)、私たちが伝えていくしかないのでしょうね。

次回は、いよいよ「真打ち」、8000系の登場です!

-その3(№2520.)に続く-