その7(№1856.)から続く


今回から更新を再開いたします。


ぶり・はまち、元はいなだの出世魚。

これは川柳ですが、この川柳のように、個体の成長に伴って名称を変える魚が存在し、それが「出世魚」と呼ばれます。鉄道の世界でも、同じ車両を使っているのに準急から急行、特急へと「出世魚」の如く種別を変えた列車がありました。それが今回御紹介する、名鉄の国鉄高山線乗り入れ用気動車・キハ8000系です。

名鉄から高山線への直通運転そのものは既に戦前からあり、当時の最新鋭車モ750形を畳敷きにした車両が鵜沼から先、下呂までSLに引っ張られて直通運転をしていました。これは、当時の名古屋市内のターミナルだった柳橋駅が名古屋市の中心部にあって利便性が高かったことと、岐阜を大回りする国鉄のルートが時間がかかることから、岩倉・犬山をショートカットする名鉄経由の方が距離が短いことなどで、下呂温泉への観光客の便宜を図ったということです。

その後使用車両は国鉄の客車に変更され、名鉄線内では電車が客車を牽引する姿が見られましたが、戦争の激化とともに、「下呂直通」は行楽色が強かったためか、中止されてしまいました。


終戦後、世の中が落ち着いてくると「下呂直通」の復活の機運が高まってきますが、決定打になったのは1960年代の国内旅行ブームでした。名鉄は昭和40(1965)年に、高山線へ直通する列車(国鉄では準急扱い)に使用すべく、以下のようなスペックの車両を世に出します。


1 国鉄へ直通することから1等車を設け、1等車はフルリクライニングシート、2等車は転換クロスシートとする。
2 デッキを設け客室の静粛性に配慮。
3 パノラマカーに準じた固定・連続窓を採用し、空調完備とする。
4 メカニックはキハ58系に準じるが、名鉄の車両限界が小さいため、艤装には配慮が凝らされている(例、放熱器が車端部の床上に置かれ、しかも強制通風式であるなど)。
5 名鉄特急用車両として、ミュージックホーンを標準装備。
6 塗装はキハ58系に準じ、クリーム色(クリーム4号)と朱色(赤11号)のツートン。


要するにキハ58系のメカニック、パノラマカー7000系の内装(デッキがあるだけこちらの方が豪華か?)という車両だったわけですが、路面電車を出自とする名鉄は車両限界が小さく、それ故に苦労もあったようです。それを如実に表すのが車体幅で、キハ58系の2944mmより200mm以上狭い2730mmとなっています。

特筆されるのは冷房の採用で、急行でも冷房は優等車や食堂車に限られていた時代に、冷房を搭載したことに関しては、準急用としてサービス過剰ではないかとも思われましたが、名鉄は自社の特急用に相当するとして、冷房搭載に踏み切りました(もっとも、固定・連続窓を採用する限り、空調の問題はあるわけで、それ故に冷房を搭載しないわけにはいかないのでしょうが)。それと引き換えということなのか、直通列車は準急としては異例の、全車指定席で運転されることになります。

余談ですが、この車両の登場の当時、国鉄へ優等列車として直通する車両でも非冷房が当たり前でした。例えば南海のキハ5500系(国鉄キハ55の兄弟車)がそうですが、こちらは非冷房が最後は仇になり、昭和55(1980)年に国鉄直通を取りやめてしまいました。そういう視点で見ると、キハ8000系は冷房装置を搭載したからこそ、20世紀末期まで生き延びることができたのではないかとすら思えます。


キハ8000系は、この年の6月から準急「たかやま」として新名古屋-高山間で運転され、下呂・高山への観光客に好評を博しました。ただし「たかやま」が準急でいられたのは1年にも満たず、翌年に運転距離100km以上の準急を急行に格上げする施策をとったため、「たかやま」も急行となりました。

ちなみに、キハ8000系は「たかやま」の間合いで名鉄線内の特急列車にも使用されました。


「たかやま」の転機となったのは昭和45(1970)年です。この年7月、立山黒部アルペンルートが開業、「たかやま」もアルペンルートへの観光客入れ込みのため、富山地方鉄道へ乗り入れることになり、立山まで(通常は富山まで)延長され、同時に「北アルプス」と改称します。これに先立ち、出力をアップした改良型のキハ8200形が増備されています。これに対し、立山乗り入れに先立ってグリーン車(←1等車)が廃止され、該当車両は座席を取り換えて普通車に格下げされました。


「北アルプス」の活躍は続きますが、国鉄は昭和51(1976)年、「ひだ」増発に伴ってのことなのか、「北アルプス」を特急に格上げします。それまで、キハ8000系列はキハ58系に準じた塗装だったのですが、特急となったときに先頭部にキハ80系のような「ひげ」を描き、特急としてアピールしています。ただし、このときもキハ8000系列の赤い部分は国鉄特急用気動車所定のワインレッド(赤2号)ではなく、朱色(赤11号)のままで、異彩を放っていました。

同じように、観光準急用車両としてデラックス仕様で製造され、その後準急→急行→特急と使用列車が変遷(出世?)した車両として、国鉄の157系電車があまりにも有名ですが、あちらは昭和38(1963)年に冷房化改造がなされ、しかも赤の部分が準急用の朱色だったものが、特急用のワインレッドに変わっており、名鉄キハ8000系とは異なる変遷をたどっています。

特急格上げ後しばらくして、文字だけだった「北アルプス」のヘッドマークも、立山連峰をイラストで描いたものに変更され、国鉄オリジナルの特急列車と比べても遜色のないものになりました。


キハ8000系の立山乗り入れの際には、富山地方鉄道線内で立山-宇奈月温泉間で運転される「アルペン特急」にも間合い運用で使用されるなど、広範囲な活躍を見せたのですが、富山地方鉄道への乗り入れは昭和58(1983)年で終了し、その後は「たかやま」時代と同様、高山までの運転となります。

その後、昭和60(1985)年3月のダイヤ改正で富山へ再度延伸されましたが、編成は3連とコンパクトなものとなり、そのために所要の車両数も減少しました。このとき、最初にデビューした車両が用途を失って廃車されています。廃車された車両の中には、元1等車のキハ8100もありました。

「北アルプス」は、この体制で国鉄民営化を迎えることになります。


以上のように、準急→急行→特急と種別が「出世」したキハ8000系。こんな列車は珍しいのではないかと思います。


次回は、キハ80系の老朽化が顕著となった北海道向けに特化された新形気動車特急・キハ183系について取り上げます。


-その9へ続く-


※ 当記事は06/01付の投稿とします。