その1(№1792.)から続く


前回取り上げた「はつかり」気動車化から10ヵ月後の昭和36(1961)年10月、通称「サン・ロク・トオ」の白紙ダイヤ改正。

御存知の方も多いと思いますが、この改正の目玉は、特急列車のネットワークを全国に張り巡らせようというものでした。


ただし、当時は主要幹線でも電化率が低く、全国に特急のネットワークを張り巡らすには、どうしても気動車による特急用車両が必要でした。しかも、「はつかり」のような長編成の固定編成ではなく、分割・併合を前提とした短編成。

そこでキハ80系も設計変更が施され、先頭車はボンネット型から貫通型のキハ82に変更、食堂車も編成単位が小さくなることから、食堂の定員が減るのを承知で床上に水タンクを置き、床下には走行用エンジンを搭載したキシ80に変更され、編成全体でのパワーアップが図られました。これに対し、1等車キロ80と2等中間車のキハ80は、ほとんど「はつかり」用のリピートオーダーとされ、キロ80の屋根に水タンクを搭載することにしたほかは、内外装ともほとんど変化がありませんでした。

ただし、「はつかり」編成で採用された全周幌は、当時の最高速度ではさしたる効果が見込めないことや、メンテナンスに手間がかかりすぎることなどでコストに見合わないとして廃止されています。


インパクトがあったのは、何といっても先頭車キハ82の先頭形状でした。正面貫通型という風貌でありながら、丸みの強い半流線型とそれに沿って緩やかにカーブする正面ガラス、そして先頭に入れられた赤色の「髭」は、これら全てが渾然一体となって、特急用車両としての気品と威厳を醸し出していました。緩やかに大きくカーブする正面ガラスは、夜間やトンネル内における映り込みを防止するためのものでもあったそうですが、この緩やかなカーブこそ、実用性とデザイン上の美しさを融合させたもので、とても50年前とは思えない優れたデザインです。2011年の現在の目で見ても、全く陳腐化していないのには驚愕せざるを得ません。

これは、ダイヤ改正で特急列車の誕生を心待ちにする沿線の期待に応えるべく、151系に負けない気品と威厳に満ちた列車を作りたいという、設計担当者の熱意の現れでもあるのでしょう。


キハ82を先頭とする80系気動車は、1等車と食堂車を1両ずつ組み込んだ6連を1単位とする編成が整えられ、以下の列車に充当されることになります。


1 おおぞら 函館-旭川
2 つばさ 上野-秋田(東北・奥羽線経由)
3 ひばり 上野-仙台(不定期)
4 白鳥 大阪・上野-青森。大阪-直江津間は2編成併結
5 まつかぜ 京都-松江(福知山線・山陰線経由)
6 へいわ 大阪-広島
7 みどり 大阪-博多
8 かもめ 京都-長崎・宮崎。京都-小倉間は2編成併結


このほかの特急は「はつかり」のほか、東海道系統での151系による特急が8往復ありました(夜行を除く)。したがって、上の8列車と「はつかり」、151系使用列車を入れても12系統17往復(151系使用列車は1系統としてカウント)ですから、四国を除く全国に特急が走るようにはなったものの、現在の基準からすればまだまだささやかなものでした。

ただし、列車としてのステータスは、現在とは比べ物にならないほど高かったようで、そのことが以下に述べる逸話を生む基にもなりました。


1 食堂車2両連結


これらの特急(151系使用列車も含めて)は全て食堂車を連結・営業しており、しかも2編成が併結となる「白鳥」の大阪-直江津間や「かもめ」の京都-小倉間は、何と食堂車が2両連結されるという、現在からしたら到底考えられないような現象も出来しました。これら「ダブル食堂車」の列車は、いずれも2両とも担当業者が異なっており、「白鳥」「かもめ」の乗客は、どちらの食堂車を利用するか選べ、実際にそのときの気分によって選択していた乗客もいたようです。極めつけは、両方の食堂車で料理の味わいを比較する猛者までいたとか。


2 特急停車駅誘致合戦


また、当時の特急のステータスの高さは、「私たちの町の駅に特急を!」という、特急停車駅の誘致合戦をももたらしました。キハ80系は比較的非力で、特急としての表定速度を維持するためには停車駅を絞り込む必要があったのですが、そうなると1日1本の特急をどこに停車させるかは大問題。結局国鉄は、「まつかぜ」では城崎と豊岡、「白鳥」の大聖寺と動橋で、上下で停車駅を違える苦肉の策をとっています。


3 能生駅騒動


「白鳥」といえば、余りにも有名なのが「能生駅騒動」。

これは以下のような顛末でした。


「サン・ロク・トオ」で特急「白鳥」が設定された当時、能生駅で「白鳥」同士の列車交換の必要が生じました(当時は能生駅周辺は単線。上りは運転停車、下りは通過)。ところが、当時の金沢鉄道管理局が作成した駅の時刻表に、どういう経緯か上り列車の停車時刻が記載されてしまい、一部の市販の時刻表にも記載されてしまったからさあ大変。地元では盆と正月と秋祭りが一緒に来たかのような(大げさ?)祝賀ムードが盛り上がり、ダイヤ改正当日の午後2時34分、駅で多数の地元住民が花束などを用意して「白鳥」を迎えたところ、ドアが開かないまま発車していく姿に一同が呆然…というオチ。

なお、この顛末は当時の朝日新聞(昭和36年10月3日付朝刊)にも掲載されており、「ぬか喜びの特急停車」という見出しがついているようです。

当時、国鉄本社は「準急すら停まらない駅に、特急を停めるわけがなかろう。常識で考えて分かりそうなものだが」と呆れ顔だったそうですが、一方地元の能生町では「せっかく停車するんだから、ぜひ客扱いを」という意気込みだったとか。


現在の目で見て疑問なのは、なぜただの運転停車を客扱いをする停車だと誤解したのかですが、当時北陸線を走っている列車は手動ドアの旧型客車の列車ばかりで、自動ドアの列車はこの「白鳥」しかなかったため、現場の駅員に運転停車の概念が乏しかったことも、大いなる勘違いの理由と思われます。


ちなみに、この騒動から21年経った昭和57(1982)年11月、能生駅には特急「北越」が本当に停車するようになり、正真正銘の特急停車駅になりますが、現在は能生駅に停車する特急は存在しません。



「能生駅騒動」のようなお間抜けなハプニングこそあったものの、四国以外の全国を走ることになった気動車特急は沿線から熱烈に歓迎され、特急券の獲得はどの列車でも至難となったといわれます。


しかし、「サン・ロク・トオ」から1年も経たない昭和37(1962)年6月10日、山陽線広島までの電化が完成し、東京から「つばめ」が延長されるのと引き換えに、「へいわ」が廃止されてしまいます(車両は北海道へ渡り『おおぞら』の釧路延長用に充てられた)。

実は、これこそが気動車特急の宿命。遅かれ早かれ幹線系線区の電化は一部を除いて約束されており、気動車特急は電化によって追われる宿命を負っていました。その宿命に従った第一号が「へいわ」だったわけですが、列車愛称としての「へいわ(平和)」も、これ以降お蔵入りとなっています。


次回は、気動車特急の快進撃とその光と影をたどります。


その3(№1806.)へ続く


※ 平成23年4月20日21:15 一部修正