その7(№1440.)から続く


東京都心部へのアクセスがあまりにも貧弱だったため「世界一不便な空港」とか「エラーポート(Airport→Errorportの洒落)」などと揶揄された成田空港も、1980年代に入ると、旅客・貨物とも増加し、東京都心部へのアクセスを改善する必要に迫られました。

そこで、昭和57(1982)年、「新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会」が立ち上げられ、当時の運輸省に対し、「空港アクセスのための高速鉄道整備は以下の3つのルートから選択し、整備するのが適当である」旨の答申を行いました。


A案:東京-新木場付近-西船橋-新鎌ヶ谷-小室-印旛松虫(現印旛日本医大)-成田空港
B案:上野-高砂-新鎌ヶ谷-小室-印旛松虫(同上)-成田空港
C案:総武本線・成田線東京-錦糸町-千葉-佐倉-成田-成田空港


お気づきかと思いますが、A案は「成田新幹線」ルートの再整備、B案は現在の「成田スカイアクセス」のルート、C案は現在JRの「成田エクスプレス」「エアポート成田」が走るルートとなっています。この3案のうち、昭和59(1984)年に運輸省が採択したのは、A案でもC案でもなく、B案の北総線延伸、現行のスカイアクセスのルートだったのです。


ではなぜ、このルートの完成が、答申採択から実に26年後の、今年、平成22(2010)年にずれ込んだのか。逆に、C案が実現したのは平成3(1991)年で答申採択の7年後ですが、こちらの方が早かったのか。その理由は、当時の政治的な動きが関係しています。


前述のとおりB案での決定を見たものの、諸事情により建設に向けた動きは進んでいませんでした。採択された昭和59年は「バブル景気」と称される空前の好景気の前夜であり、航空旅客が激増していたことから、アクセス改善の動きは待ったなしになっていました。そこで、昭和62(1987)年、運輸大臣(当時)に就任した石原慎太郎氏が、完成したものの打ち捨てられていた成田新幹線の設備を、当時の運輸官僚の反対を押し切って視察し、直後に成田新幹線の設備と用地を有効活用し、京成とJRを乗り入れさせる案を指示、アクセス改善の動きが急展開します。当時、成田新幹線が乗り入れるはずだった成田空港駅(現在の成田空港駅・第一ターミナル直下の駅施設)を視察した石原氏は、打ちっぱなしのコンクリの構造物から滴る地下水を見て、「これは国民の流した涙だ。税金の無駄遣いを嘆く涙だ」と、同行した記者や官僚に言ったことが記録に残っています。

そのような次第で、成田市内の成田新幹線の高架橋と、成田空港駅の施設を有効活用し、JRと京成の両者が乗り入れる新路線が建設されました。JRは成田線成田-久住間を複線化し、途中で分岐する形で成田新幹線の高架橋に入り、そこから成田空港を目指すルートを取るのに対し、京成は成田空港線(現東成田線)の途中から分岐させ、その路線を成田空港駅につなぐルートとなっています。このルートは平成3(1991)年3月に完成し、成田空港へのアクセスが飛躍的に改善されました。

なお、成田空港ターミナルビル直下の乗り入れ実現に伴い、それまでの京成成田空港駅は「東成田」と改称され、空港職員らの利用に供されることになりました。ただ、駅の規模は大幅に縮小され、スカイライナー専用ホームだった旧1・2番線は、使用停止になり駅名標も取り換えられず、往年の姿を今に残しています。


さて、「バブル経済」出来に伴い海外旅行客が激増するに及び、「スカイライナー」の乗客数も右肩上がりで上昇していきます。京成にとってはやっと「スカイライナー」の本領発揮といったところですが、成田空港ターミナルビル直下乗り入れを見越し、輸送力増強を兼ねて2代目AE車が登場します。


その車両は、平成2(1990)年に登場したAE100形です。この車両は、先代AEとは以下の点で異なっていました。


1 先代が胸を突き出した流線型だったのに対し、こちらは直線的な流線型とされた。
2 前面貫通構造を採用し、都営浅草線及びその先の京急乗り入れにも対応。
3 輸送力増強のため、6連から8連とし、合わせて1両あたりの長さを1mストレッチ。
4 座席は回転リクライニングシートを登場時から採用(先代も換装により装備)。
5 制御装置はVVVFインバーターを採用。


というように、AE100形はなかなか意欲的な設計だったのですが、都営浅草線や京急乗り入れは現在まで実現しないままです。スカイアクセスを160km/hでぶっ飛ばす3代目AEは非貫通型のため都営浅草線乗り入れは無理なので、この構想は実現しないまま終わってしまうんでしょうか。小田急は地下鉄千代田線や有楽町線に乗り入れる特急ロマンスカーを、一昨年から運転していますが、やはりこれも、営団地下鉄が東京メトロという一般企業になったのが大きかったのでしょうか。あるいは、東京都が悪い意味で官僚主義的なのか。かつて3150形や3200形セミクロス車の「開運号」を浅草線内から運転した実績があるのですから、何とかしてその実績を生かしてほしいと思うのですが、それは愛好家の妄想に過ぎないのでしょうか。


閑話休題。

ともあれ、2代目AE・AE100形は好評を博し、先代も8連化されるなど輸送力は大幅に増強されています。その後、先代AEは2代目と入れ代わるように、順次退役していきました。そして平成5(1993)年、AE100形が出揃い、同車だけで「スカイライナー」の運用が回せる本数が確保されたことから、先代AE形は完全に「スカイライナー」の職を退きました。「見て下さい! 私の晴れ姿を」と、当時の京成の広報誌に紹介され、日本初の空港アクセス特急として颯爽とデビュー、押しも押されぬフラッグシップの座が約束されていたはずの先代。しかし実際には、せっかく所定の本数が落成したのに宗吾の車両基地で放置プレイを強いられた。「開運号」に代わって名無しの一般特急として走っても本数が少なく、しかも乗車率も惨憺たるものだった。甚だしきは仲間が焼き討ちに遭う。ことほどさように、彼女たち先代一族の人生(車生?)は、まさしく「艱難辛苦」の連続でした。それが最後に8連化され、新ターミナル駅への乗り入れを果たし、惜しまれながら引退、しかも下回りも有効活用されるという、晩年から引退までは非常に恵まれていたと思います。

ちなみに、現在先代AEは、先頭車の車体だけが宗吾の車両基地内に保存されており、足回りは3400形に装着されています。


平成3(1991)年にはJRも、国鉄時代からの歴史を通じて初めてとなる空港アクセス特急「成田エクスプレス」の運転を開始します。車両は、それまでのいわゆる「特急型」とは一線を画し、空港アクセスという用途に特化された、253系という車両でした。253系は昨月いっぱいで全車退役していますが、「成田スカイアクセス」が開業しようという年に、しかも開業の直前に、初代「成田エクスプレス」用の車両が退役するというのは、何か歴史の配剤のようなものを感じずにはいられません。


次回は、同じターミナルビル直下に乗り入れることになって生じた、京成とJRとのライバル物語を、京成側の視点から見て参ります。


その9(№1453.)へ続く