その1(№1384.)から続く


昭和20(1945)年8月。日本の敗戦という結末を迎え、とりあえず戦争は終わりました。

終戦直後の京成も、御多聞に漏れず車両も施設も疲弊しきっていて、動かすのがやっとの状態でした。


それでも京成は次第に立ち直り、終戦の翌年の昭和21(1946)年10月にモハ220形5両が新造投入され、復興の狼煙を上げます。さらにそれから2年後の昭和23(1948)年には「運輸省規格型」といわれるモハ600形10両が投入されました。この「運輸省規格型電車」とは、満足に動ける電車が少なかったことと、当時の標準型だったモハ63系が20m・4扉の大型車体のため、必ずしも私鉄の車両限界や建築限界には合わなかったことから、当時の運輸省が音頭を取って電車の設計その他のスペックを共通化したもので、東急の3700系や名鉄の3880系があまりにも有名です。後に東急3700系は名鉄に移籍し、3880系の一員となって昭和末期まで活躍しました。このような移籍劇は、基本設計が共通化されていたからこそ成しえた芸当ですが、実際には多くの「亜流」が存在したとされていて、それほどのコストダウンにはなっていなかったようです。「規格型」というなら、現在の東急車輛のE231系列や「日車標準車体」「日立A-Train」の方が、よほど規格化が深度化されているような気がします。終戦直後よりも現在の方が、鉄道経営にとっては厳しい時代なのでしょうか。


閑話休題。

京成のダイヤ面での復興は、昭和23(1948)年の5月15日のダイヤ改正に現れています。このときの改正で、それまでの各駅停車オンリーから脱却し、準急列車が復活しています。ただし優等列車とはいえ、上野公園-小岩間が各駅停車となっていたり、上野公園から成田まで約1時間45分を要したりという、現在の基準から見ればいかにも鈍足なものですが、それでもこの列車の復活は、京成という会社の士気を高め、沿線住民にも復興への希望を与えたことは間違いないでしょう。

翌年には不定期ながら急行が登場します。上野公園-成田間の停車駅は、日暮里・千住大橋・青砥・高砂・八幡・船橋・津田沼・大和田・佐倉で、現在の快特とほぼ同じであることは注目されます。さらに急行には、押上発着の系統や上野公園-千葉間の系統もあったようで、このころはまだ京成も東京-千葉間の都市間輸送には力を入れていたのでしょうかね。あるいは、当時はまだ総武快速線がなかったので、京成もスピードで勝負ができたのかもしれません。今の千葉線は各駅停車ばかりになってしまい、管理人のようなよそ者から見れば、正直言って勿体ないという気持ちもあります。

ただ、このころはまだ沿線輸送・都市間輸送の復興に重点が置かれており、戦前の「護摩号」のような、成田山への参詣客を輸送するための列車については、復活するまでにはもう少しの時間が必要でした。


ところで。

前回、戦前に登場した京成唯一のクロスシート車・1500形のことにちらっと触れました。この車両は電動機を持たない制御車(いわゆるクハ)でしたが、戦時中、収容力の確保という点からロングシート化改造を受けて、一般車と同じ内装になっていました。この車両について、戦後の復興とともにこの車両をレストアし、成田山参詣列車を運転しようという機運が、京成の内部でも高まっていきます。

そこで、昭和26(1951)年、京成は1500形をレストアしてクロスシートを復活させ、600形と組んで急行「護摩号」に使用しました。この時点で、戦前の成田山参詣列車「護摩号」が復活したことになります。ということは、終戦後6年、わが日本の復興がある程度見通しがついて国民の生活にもいくらかの余裕が見え始めた時期に至って、このような成田山参詣客を当て込んだ列車が復活する土壌ができたといえます。

ただし、この段階では1500形は依然としてクハのままですから、モハとして当時の最新鋭600形に白羽の矢が立ったわけです。

もっとも、この年の12月には1501と1503を電装し、1500形クロスシート車だけで独立した列車を組成できるようになりました。


そして昭和27(1952)年5月1日、特急「開運号」が運転を開始しました。

この列車は上野から成田山への参詣客をできるだけ速く成田駅へ運ぼうとするという、成田山参詣客の輸送に特化した、確固たる目的を持った列車でしたが、それが如実に現れているのが停車駅です。上野公園の次は青砥、青砥を出たら次は成田。つまり、上野公園-成田間で途中の停車駅は青砥だけ。これはいうまでもなく、押上線方面からの成田山参詣客を拾うためでしょうが、ずいぶん思い切ったものですね。あるいは当時は、成田山参詣など観光輸送に占める鉄道のシェアも重要性も、現在とは比べ物にならないほど大きかったことも指摘できると思います。

栄えある特急「開運号」の使用車両は、レストアされたモハ1501とクハ1502で、それぞれ座席に白いカバーをかけて運用されたそうです。当時の「開運号」は以下のダイヤでした。


下り 上野公園0930 → 成田  1058
上り 成田  1505 → 上野公園1633


つまり1往復だけの運転だったわけですが、成田に11時前に着いて参拝と昼食、周辺の散策を済ませて駅に戻れば上りの「開運号」に間に合うという、実に合理的なダイヤが組まれました。所要時間は下り・上りとも1時間28分となっていて、以前の急行より16分のスピードアップが図られています。

この列車、運転開始当初は自由定員制だったのですが、その後程なく、この年の6月から座席指定制になっています。


ところで、「鉄道ピクトリアル」の京成特集(2007年3月号増刊)を読んでいますと、特急料金について、翌昭和28(1953)年の1600形就役のときに特急料金50円を徴収するようになったとの記述があります。この記述を素直に読むと、それ以前の1500形の使用時は、特急料金というエクストラチャージを徴収していなかったことになります。そうなると、1600形就役前の「開運号」は、どうやって定員制の切符や座席指定券を割り当てていたのでしょうか? 各停車駅に所定の枚数が割り振られたのか、あるいは企画乗車券のようなものがあって、その乗車券を購入した人だけが乗車できるというようなシステムをとっていたのか、そのあたりは分かりません。


翌昭和28(1953)年、京成は「開運号」を本当の意味の看板列車へとアップグレードすべく、初の特急専用車ともいえる1600形を世に出します。次回は、1600形のスペックなどを交えながら、「開運号」の軌跡を見ていきたいと思います。


その3(№1405.)に続く