改めまして、新年明けましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願い申し上げます。


というわけで、2010年の連載記事はモハ32系登場から80年を迎えた横須賀線と、元祖湘南電車80系の就役から60年を迎えた東海道線の歴史回顧と参ります。ちなみに、今年は両線が開業してから121年となりますので、その意味でもこの両路線を取り上げるのは意義深いことではないかと自負しております。


明治22(1889)年は、現在の東海道線の東京-神戸間が全通した年に当たります(ただし当時は、東京側の起点は東京駅ではなく新橋駅)。横須賀線も同じ年に大船-横須賀間が開業していますが、一介の支線に過ぎないはずの横須賀線が、我が国の鉄道路線の中でも比較的早期に開業しているのは、ひとえに横須賀という都市の特殊性によるものです。横須賀には海軍の基地がおかれ、国防の拠点としての重要性が高かったため、軍事上の要請という国家的な必要性から開業が急がれたようです。実際、北鎌倉付近ではお寺の境内の真ん前を通ったりしていますが、これは、このような軍事上の要請には寺社も逆らえず、建設に協力した歴史を裏書きしているものです。

海軍の基地(軍港)を沿線に擁することから、横須賀線には開業当初から優等車の需要があり、列車には必ず2等車(→1等車→グリーン車)が連結され、現在のグリーン車に至るまで続いています。この優等車の需要は東海道線も同じでしたが、こちらは軍事上の理由というよりは、むしろ政財界の大物や文人墨客など、今で言うところのセレブリティが多く沿線に居住していた結果です。戦後は、横須賀線の軍事的な重要性は低下しましたが、こちらも鎌倉や逗子などに、東海道線同様多くのセレブリティが居住していたため(石原慎太郎の実家は逗子にあったし、佐藤栄作は鎌倉に住んでいた)、優等車の需要は依然として残っていました。


黎明期の両路線の列車は、当然のことながらSL牽引の客車列車で運転されましたが、大正14(1925)年に全線が電化され、その6年後の昭和5(1930)年3月、東京-横須賀間で電車の運転を開始します。このときはまだ32系が登場しておらず、当時京浜線(現在の京浜東北線)で使用していた木造車をかき集めて充当されたという記録が残っています。このとき、横須賀線用の電車の基地として、田町に電車区が開設されました。この電車区こそが、後に151系や153系などが配属され、エリート基地として名をはせた田町電車区、現在の田町車両センターの起源となっています。

ちなみに、戦前の横須賀線の様子が分かるのは、芥川龍之介の「蜜柑」という小説ですが、あれは大正6(1917)年の作ですから、まだ横須賀線が「電車」ではなく「客車」だったときのはず。鉄道趣味界にとっては、そのころよりも電車運転開始後、特に32系就役後の方が語られることが多いようです。


32系の登場は、横須賀線で電車の運転を開始した1年後の昭和6(1931)年で、寄せ集め運用はたったの1年で終わったようです。これはひょっとすると、32系の設計・製造が昭和5年の電車運転の開始に間に合わなかったのが理由ではないかと思うのですが、本当のところは分かりません。

付言すれば、この昭和5年という年は、その1年前に東武鉄道で浅草(現業平橋)-東武日光間約130kmの長距離で電車運転を開始し、また大阪電気軌道(大軌)と参宮急行電鉄(現近鉄大阪線)が大阪上本町-宇治山田間約130kmの距離の電車運転を開始するなど、その多くは私鉄によるものですが、長距離電車運転の黎明期といってよい時期でした。横須賀線も東京から横須賀まで60kmあるのですから、当時としては(当時の国鉄・鉄道省としては)破格の長距離運転であったはずなのですが、そのことに対する評価はあまり高くないようです。


それはともかく、昭和6年、国鉄の電車としては初めて長距離運転を意識し、32系が登場しました。

車種は以下のとおり。


・ 制御電動車 モハ32
・ 制御車 クハ47
・ 付随車 サハ48
・ 二等付随車 サロ45
・ 二・三等合造付随車 サロハ46
・ 二等制御車(実質的な貴賓車)クロ49


長距離運転を意識しただけあって、片側2箇所のドアが車端部に寄せられ、その間にボックス席を設けるレイアウトとされました(ドア部分だけはロングシート)。ただし完全にデッキを設けた形とはなっておらず、現在現役の車両でいえば阪急の6300形に近いレイアウトとなっています(あちらはドアの間が転換クロスシートですが)。車端部にロングシートがあるという点で見れば、西鉄の8000系の方が近いかもしれません。

また、この系列(当時は系列という概念は国鉄内部にはなかったが、便宜的にこれらを総称する意味で使う)の特徴は、電動車が17m、付随車が20mという、電動車と付随車で車体長が異なっていることです。これは、当時まだ台枠の構造計算が進んでおらず、20mの台枠に当時の標準的な機器を搭載してしまっては台枠がその重みに耐えられるのかといった危惧があったようです。32系が出た1年後に、国鉄は電動車も20mにした40系(モハ40・41など)を投入していますので、なぜこの時点で20mにできなかったのかというのが疑問なんですが…。もっとも、同時期に製造された参宮急行電鉄(→近鉄)の2200系電動車について、台枠が機器の重みに耐え切れずに新造後10数年で垂下してきてしまった事例があるようですので、結果論から言えば、このときの32系の選択は、ベストとはいえないまでも、決して悪い選択ではなかったのではないかと思います。

さらに、地味ですが見逃せない特徴として、列車を客車のように貫通幌でつなぎ、各車相互間の行き来を自由にできるようにしたことが挙げられます。これは言うまでもなく、本格的な列車としての体裁を整えたもので、当時の京浜線や山手線などでは、まだ各車を幌でつなぐという発想がなかったため、非常に斬新でした。現在のように各車を貫通幌でつなぐのが当たり前になるのは、戦後昭和26(1951)年の桜木町駅火災事故が起こって以後のことになります。

この系列で特筆すべきは、貴賓車といってよいクロ49形の存在でした。この車両は、皇族方(葉山に御用邸がある)の御乗用に作られた車両で、窓の配置も室内の構成も全く異なり、側面には菊の御紋章を取り付ける台座まであったといいますから、クロ49という一般形式はあるとしても、その実態は貴賓車、否それどころか限りなく御料車に近い車両だったということがいえます。このような車両の存在も、戦前の横須賀線の国家的な重要性を裏付けるものだと思います。


ともあれ、戦前の横須賀線は、軍港の横須賀、別荘地の逗子、別荘地兼観光地の鎌倉を結ぶ路線として、重要な位置を占めていました。32系の投入により、より先進的な路線に生まれ変わったのではないかと思います。


では、そのころの東海道線は? そのお話はまた次回。


その2(№1231.)に続く