その22(№1145.)から続く


新幹線の食堂車ですが、在来線の食堂車が壊滅状態になる中、2階建て車両を筆頭にひとり気を吐いていました。そこそこの隆盛を謳歌していた、といえばいえますが、裏返せばそれは、膨大な利用客数に支えられてのことでもありました。

ところで、JR発足直後、東海道新幹線を運営するJR東海、山陽新幹線を運営するJR西日本両者とも、国鉄から大量に承継した0系の処遇が問題となりました。昭和50(1975)年の博多開業の際に大量に投入した車両の取り換え時期が迫り、置き換えの必要に迫られたからです。

時あたかもバブルの絶頂期。前回触れた「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」の豪華な食堂車が受け入れられたのも、当時の旺盛な消費需要に裏付けられてのことですが、東海道新幹線においては、利用客数が伸びる中でもグリーン車の需要の伸びが顕著になり、増車の必要に迫られます。


そこでJR東海は、0系の取り換え用に100系を増備することを決定したのですが、昭和63(1988)年に登場した3編成は、2階建て車両の1両が食堂車だったのを、2階をグリーン車(客席)とし、1階を「カフェテリア」と称される食品類の販売スペースに充てた車両に変更して投入されました。

「カフェテリア」とはいえ、ファストフード店や一部のデリカテッセンのようなイートインスペースはなく、あくまで自席に持ち帰って飲食するという形態がとられました。その意味では、この「カフェテリア」の実態は巨大な売店車だったのですが、当時はそれまで意識されなかった女性客にターゲットを当てた品揃えをしたことが、一般マスコミにも注目されました。具体的には今でいうスイーツ類やワインなどの品揃えを充実させたことで、これはそれまでの食堂車や車内販売にはなかったことでした。この「カフェテリア」はJR東海の子会社(JRパッセンジャーズサービス)が運営し、同じ形態の売店を主要駅に出店し、統一したイメージ戦略が図られました。

この編成は平成3(1991)年までの間に大量に増備され、90年前半の新幹線のフラッグシップに君臨することになります。ただ、この編成の投入当初、JR東海は東京-新大阪間などの短距離の列車に優先的に充当することをもくろんでいたようですが、その後の方針の転換があったためか、平成4(1992)年ころには東京-広島・博多間など長距離の列車にも充当されることになり、長距離利用者の間からは、食堂車のないことに対する不満も聞かれるようになりました。


他方のJR西日本は、JR東海と同様に100系を増備して0系の置き換えを狙い、現車がJR東海の車両が登場した翌年、平成元(1989)年に登場するのですが、編成構成は大きく異なっていました。両先頭車を電動車にして中間に4両の付随車を集中させ、その4両ともを2階建て車両として、そのうち1両はJR東海が増備を見送った食堂車にしました。残る3両は2階をグリーン席としていますが、1階は眺望が効かないことを逆手に取り、あえて横4列の普通席を設けています。この編成は2階建て車両が中間に4両連なっているため、その存在感や威圧感は圧倒的なもので、後に「グランドひかり」というニックネームが付けられることになります。

そして食堂車は、従来車以上に内装を豪華にした上で、さらにメニューが見直され、「北斗星」のフレンチフルコースに匹敵する7000円のコース料理をメニューに加えています。このコース料理のメインディッシュはステーキではなくローストビーフであったことが目を引き、鉄道趣味誌においてレイルウェイ・ライター氏がそのコース料理に舌鼓を打っている姿が掲載されていました。しかしこれは、大きな注目を集めはしたものの、ビジネス需要の大きい新幹線では、さしたる注文数は出なかったとも聞いています。

「グランドひかり」とは別に、JR西日本は昭和63年、新大阪-博多間のみの「ひかり」について大幅なグレードアップを施した列車を運転します(『ウエストひかり』)。この列車は0系が充当されましたが、ビュッフェ車37形が大改装され、それまでの立食カウンターから、街中の喫茶店のようにイスとテーブルが並ぶ形になり、食堂車に近い形になっています。この列車では、それまで表に出ることはなかった「丸玉給食」なる業者が運営に参加し、カレーライスが名物メニューとして人気を博しました。


237形による立食式ビュッフェだけだった東北・上越新幹線も、平成2(1990)から一部の「やまびこ」の編成に2階建てグリーン車を組み込み、翌年には東海道新幹線と同じような、2階をグリーン席、1階を「カフェテリア」とした車両を組み込んでいます。東海道新幹線と違うのは、カフェテリア内にイートインスペースが設けられたことで、こちらの方が本来の意味における「カフェテリア」であるといえます。この車両を組み込んだ「やまびこ」は6編成が用意され、東北新幹線のフラッグシップとして君臨します。


…とこのように、新幹線では新たな供食サービスが模索されていたのですが、平成2(1990)年に登場した300系試作車は、高速運転を身上とするため「カフェテリア」すらもなくなり、8~10号車のグリーン車に隣接する7号車と11号車に「サービスコーナー」と称する車内販売基地兼売店を設けるだけになりました。


一方の在来線は、従来型の食堂車こそ壊滅状態になったものの、新たな時代に対応した形が模索されるようになります。


そのひとつに挙げられるのは、平成元(1989)年に登場した「夢空間」と呼ばれる豪華な寝台車・食堂車ですが、そのうちの1両は「展望食堂車」で、列車の最後部に連結されることが前提とされる構造になっていました。このような車両が定期列車に連結されれば素晴らしいと思ったものですが、その後のバブルの崩壊が仇になったのか、量産されることはなく、1両のみの存在に終始しました。1両のみ故「北斗星」系統の臨時列車や団体臨時列車などに連結されていましたが、近年退役してしまっています。

もうひとつの流れとして、食堂車・ビュッフェを単なる食事スペースではなく、長旅の途上の気分転換の場ととらえ、再評価する動きがありました。そのような動きが形になったのが、平成4(1992)年に登場したJR九州のサハシ787形です。この車両は、改造車以外の電車で「シ」の記号を持つ25年ぶりの新形式車であり、その点でも注目されました。

ビュッフェは立席とされましたが、それまでの片側に厨房がある形態ではなく、厨房をビュッフェスペースの片隅に集約し、立食スペースを広く取り、かつ屋根はドーム型にして開放感を演出しています。フード類はカレーライスやチャーハンなど、電子レンジで温めるような簡易なメニューでしたが、これは、コストダウンとフリースペースの提供を両立させようとした試みでもありました。


このように、新幹線・在来線とも新たな方向性を模索していましたが、バブルの崩壊とその後の消費の低迷は、旅行需要そのものの減退や旅行費用の抑制(財布の紐が硬くなること)を招き、食堂車も無縁ではいられなくなります。

次回は、食堂車が「最強のテツメシ」となっていった過程を取り上げます。


その24(№1165.)に続く