その7(№1043.)から続く


昭和33(1958)年は、食堂車にとってもエポックメイキングな年でした。前回取り上げた「ビュフェ」もそうですが、マシ36(→カシ36)で頓挫したはずの「オール電化食堂車」がデビューしました。この車両こそ、後にブルートレインと称された、特急「あさかぜ」用20系客車の食堂車・ナシ20です。


20系客車については既に様々なところで語られていますし、当ブログにおいてもブルトレを取り上げた連載記事「ブルトレ50年の栄枯盛衰~あさかぜからカシオペアへ」でも言及していますが、食堂車で最も画期的だったのは、それまではほとんど夢物語だったキッチンの完全電化を実現したことです。

それまでの食堂車は、特急「こだま」用のビュフェ・モハシ150を別にすれば、石炭を燃料にして調理をするという「石炭レンジ」が標準装備でした。そのため、食堂車のキッチンからは、食材を調理するときの何ともいえない食欲をそそる匂いとともに、石炭の焦げる匂いや煙が漂ってきたそうです。当然、電化区間でもそれは同じで、先頭がSLではないのに編成の中間から煙が漂ってくるという、現在の基準からすればなかなかシュールな光景が見られました。

しかし、このような石炭レンジは、走る列車の中で裸火を取り扱うものですから、火災の危険と背中合わせであり、防災の観点から問題がありました。そのため、食堂車のキッチンの電化は食堂車従業員の夢でもあって、昭和26(1951)年にマシ36形で実現しかけるのですが、調子がよくなかったようですぐ石炭レンジに改造されています(マシ35形10番代)。


独立の電源を確保するのが難しい客車列車の場合、石炭レンジの呪縛から逃れることはできないのか。現実に、このナシ20に前後して製造されたオシ17は石炭レンジを採用して落成しましたから、もはやこれはいかんともしがたいものだとして、食堂車従業員も利用客も、半ばあきらめかけていました。

しかし、ナシ20は「オール電化」を実現した。

これは当然、電源車方式の採用が大きくものをいっています。従来の客車列車は1両ごとの独立した車両を編成として組成するもので、編成の自由度が高く増減を臨機応変にでき、融通が効く点はメリットではあったものの、サービス用電源の確保には難がありました。このころまでの客車は、冷房装置などは搭載しておらず、暖房も蒸気暖房が主流という状況では、サービス用電源といっても室内灯くらいのもので、その程度であれば走行中にベルトを介して発電器を駆動させる「車軸式発電器」を使用することで事足りていました。

ところが、冷房その他旅客サービスが充実してくると、そのような発電量では到底足りず、独自の電源を確保する必要があります。当時はまだ電化区間は少なく(東海道・山陽線も姫路以遠は非電化だったし、常磐線に至っては取手以遠が非電化。従って特急『はつかり』は上野からSLの牽引だった)、電車のように架線から取るという芸当はできません。

そこで20系は発想を転換し、他の車両との混結を一切考えない固定編成とし、サービス用電源は編成の一端に大型の発電器を搭載した「電源車」を用意し、これによって賄わせる方法が採られました。このような「電源車方式」を採用することによって、食堂車のキッチン設備の「オール電化」が遂にかなったわけです。

ただし「オール電化」とはいっても、現代のIH調理器(これは電磁波を発生させて熱を出すもので電熱式とは異なる)とは違い、原理の単純な電熱調理器でした。このあたりはやむを得ないものもありますが、技術の進歩・確信の度合いは著しいものがあると思います。

それでも石炭を取り扱うときのような裸火はなくなり、食堂車従業員の精神的負担は大幅に改善されました。


また、このナシ20は大きな特徴がありました。それまでの国鉄の車両は、同一形式であれば車両メーカーが違っていても極力仕様を共通化していたのですが、この車両は2社(日本車輌と日立製作所)で食堂のデザインが異なり、乗り比べる楽しみもありました。日車仕様・日立仕様それぞれに肩入れするファンがいて、好みの車両に当たると喜んだ人もいたようです。このような仕様の競作は、食堂車以外にも2等寝台車(→1等寝台車→A寝台車)などにみられましたが、その後の増備の進行に伴い共通化されてしまったのは、合理性のためとはいえ残念なことでした。

余談ですが、JR東日本のステンレス製通勤車、例えば209系などは東急車輌製と川崎重工製で構造が異なるようですが、こちらは内装には両者とも大きな差異はありません。

さらに特筆すべきは、食堂の定員が増加していることです。それまでの戦前型やマシ35などが2人+4人のテーブルを配置し、食堂の定員が30人だったのに対し、このナシ20形は2年前に登場したオシ17にならい、車体幅が150mm広げられ2950mmになったため、両側とも4人掛けのテーブルになり、食堂の定員が40人に増加しています。


ナシ20は昭和33(1958)年10月に第1陣が「あさかぜ」に投入され、翌昭和34(1959)年には「平和」改め「さくら」に(20系置き換えと同時に列車名を改称)、そして昭和35(1960)年には「はやぶさ」用として投入され、完全空調の快適な車内でおいしい料理(当時の食堂車の料理は、一流ホテルのレストラン並みかそれ以上のグレードを誇っていた)を堪能できるとして、その居住性の高さ(当時としては)が大いに絶賛されました。20系が絶大な人気を博した理由のひとつに、この「完全空調」が挙げられることは、これまで様々な文献などでも指摘されています。

もちろん冷房付き食堂車は、これまでにもなかったわけではなく(マシ38形など)、ナシ20が初めてではないのですが、やはり「無煙化」による食堂車従業員の労働環境の向上、利用客にとっての居住性の向上は、この食堂車の人気に大いに寄与したことでしょう。


昭和30年代は、戦後の復興がなり、また鉄道が交通機関の王者としての地位を占めていた最後の時代でもあり、様々な新型車両が登場します。食堂車もこの伝に漏れず、様々な新しい車両が登場するのですが、そのお話はまた次回。


その9(№1057.)へ続く