いよいよ明日11日に迫った、東急大井町線の二子玉川-溝の口間の延伸開業。

以前の記事でも触れましたが、これが完成すると、今日までの「二子玉川行き」は終電の1本を除いて見ることができなくなってしまいます。つまり、この溝の口延伸開業によって、長い間終着駅の地位にあった二子玉川駅は、この駅が目黒蒲田電鉄の駅として昭和5(1930)年に開業して80年目にして(駅そのものは玉川電気鉄道が明治40(1907)年に開設していますが)、完全な中間駅となってしまうことになります。
そこで今回は、明日11日から完全な中間駅となってしまう、二子玉川駅の歴史をフィーチャーしてみたいと思いますので、何とぞお付き合いのほどをm(__)m


上記のとおり、二子玉川駅はもともと玉川電気鉄道(玉電こと東急玉川線の運営会社)が開設した駅でして、開設当時は当然のことながら終着駅でした。このときは単に「玉川駅」と称していたようです。
その後大正13(1924)年に砧線が砧本村まで開通し、「玉川駅」はターミナル駅としての機能をより強めていくことになります。ただしこの当時、「玉川駅」に出入りする車両は、路面電車サイズの小型車両ばかりでしたし、また砂利を運搬する貨車を牽引した電車も姿を見せていました。玉川電気鉄道は、多摩川の河原の砂利を東京市内中心部に運ぶことを目的として建設・開業しているので、それは当然のことでした。
その後、昭和2(1927)年に二子橋の上に線路を敷き、溝の口まで延伸され、玉川線の車両が多摩川を渡って溝の口へ姿を見せるようになります。

目黒蒲田電鉄によって、現在の東急大井町線が二子玉川に到達したのが、上記のとおり昭和5(1930)年のことですが、このときの二子玉川駅は現在地と異なる場所、具体的には田園都市線が大井町線を交わして渋谷方面に向かう線路のあたりにあり、現在の駅よりは北にずれた場所にありました。

しかし、このときはまだ玉川線・砧線も大井町線も、それぞれ別会社の路線だったためか、前者は依然として「玉川駅」のままで(その後よみうり遊園駅に改称)、二子玉川駅というときは後者、つまり大井町線の駅のみを指しました。それでも両者は至近距離にあり、乗り換えは至便だったようです。

その後、昭和13(1938)年に両社が合併して東京横浜電鉄となると、両駅は統合され、揃って「二子読売園」駅を名乗るようになります。

ちなみに、この二子玉川のあるあたりは、大正年間から観光地として開けていて、料亭などが軒を連ねていたそうです。目黒蒲田電鉄(というかその経営者五島慶太)は、二子玉川エリアに遊園地やプールなどを作り、自社の乗客の増加を図ろうとしました。この遊園地こそ、両者の統合後の新駅名となった「二子読売園」、後の「二子玉川園」です。


その後は、戦時中の昭和18(1943)年に溝の口への路線が大井町線とつながるように改軌・改修され、鉄道線用の大型の車両が、併用軌道となった二子橋をしずしずと渡るようになります。このような「道路の上を電車が行く」光景は、昭和41(1966)年の3月まで見られました。この措置は、軍需工場が溝の口近辺に多数立地するようになったため、そこに通う工員の輸送が、玉川線の路面電車サイズの車両では賄いきれなくなったためです。これによって、路面電車サイズの車両が1両で行き来していたものが、大型車の2~3両編成が走るようになり、輸送力は飛躍的に向上しています。この区間はたった2km少々ですが、この区間こそが多摩田園都市という大規模住宅開発の突破口となったことは、何度強調してもし過ぎることはありません。

ちなみに、それまでの大井町線の駅は、玉川線に直交する形になっていたことから、溝の口方面へとつなぐためにカーブした本線上に新たな駅を設け、以前の駅は留置線として活用していました。この留置線にはかつてのホームも残っており、当時の面影をよくとどめていました。この留置線には、昭和41(1966)年まで、電車の休む光景が見られていたようです。

時の経過とともに戦局は次第に悪化し、昭和19(1944)年には、観光や娯楽を連想させる鉄道駅名は順次改称されるようになり、二子読売園駅が「二子玉川」駅と改称され、大井町線にとっては開業当初の駅名に戻っています。このような施策で改称を余儀なくされた駅には、東横線の「綱島温泉」や小田急の「鶴巻温泉」などがあります。


戦後しばらくの間、この駅は二子玉川駅のままでしたが、昭和29(1954)年になると、世の中が落ち着いてきたということなのか、遊園地の名前を冠した駅名に改称されます。このとき「二子玉川園」と改称され、この駅名が20世紀末の平成12(2000)年まで生き延びることになります。

このころになると、多摩田園都市の開発の本格化に伴う路線の延伸(二子玉川以西の新路線建設)、あるいは渋谷方面との「新玉川線」(注)の建設が計画され、地上の駅では手狭になってき始めます。

そこで東急は、「新玉川線」を受け入れる形で、大井町線(昭和38(1963)年に田園都市線と改称)ともども駅を高架化することにし、合わせて輸送上の隘路だった二子橋の併用軌道を解消することとされました。

新しい高架駅は、両側を田園都市線が抱き込み、真ん中2線に「新玉川線」が入る形態とされ、「新玉川線」の折り返し線を二子新地寄りの多摩川橋梁の上に設けるものとされ、長津田までの延伸を目前にした昭和41(1966)年3月19日に完成しました。その年の4月1日には、長津田までの延伸開業がなっています。

ちなみにこのとき、玉川線・砧線は従前どおり地上に取り残され、昭和44(1969)年5月10日の廃線までそのままでした。

玉川線・砧線が廃止された後の二子玉川園駅のスペースには、しばらく走る線路を失った車両が留置されていましたが、その後スーパーマーケット「東光ストア」(現東急ストア)が建設されました。このスーパーマーケットの建物は簡素な平屋建てであり、ここに玉川線・砧線の駅があったということがよく分かりました(管理人は勿論、両線が現役だったころをリアルタイムでは知りませんが、写真集を見たり現地に足を運んだりしての感想です)。


(注)=当時の「新玉川線」の構想は、現メトロ銀座線との相互乗入れを前提とされていたり、予定されていた経由地・駅の位置も現在とは微妙に異なるなど、現在の田園都市線旧新玉川線区間とはあまりにかけ離れているため、あえてカッコ書きとした。


※ 当記事は7/9付の投稿としております。また、コメントへのレスが遅れておりますが、順次行いますので、しばらくお待ち下さいm(__)m


長くなりましたので、後編へ続きます